印刷の難易度

印刷には様々な難易度があります。技術的にもそうだと思いますし、入稿や、それまでに掛かる何かかもしれません。予算やタイミングもあるでしょうし、それぞれがそれぞれで、印刷の難易度だと言えます。では、印刷を策定する上での難易度とはなんでしょうか。この場合、その全てを統括する印刷というものをスムーズに遂行する為のポイント、というものが一点あります。今は、むしろ、それさえクリアしておけば、印刷の発注者たる私達が質の良い印刷加工物を手にするのは容易であるとさえ言えます。それは、印刷の「頼みやすさ」を基準とした難易度です。例えば、町の見知らぬ印刷所に突入して発注する場合と、グラフィックに発注する場合、どちらが発注をしやすいでしょうか。答えはとても簡単です。それはグラフィック、と、ほとんどの人が答えると思います。加工の種類の豊富さ、値段も含め、品質を見比べれば、値段相応、しかも、いろんな発注の仕方をサポートまでしてくださっている。基本、技術の高い所に頼むのは、とても難易度が高いのですが、これにも理由があります。職人が頑固だとか、営業が居ないとか、もちろん諸説ありますが、一番は、その規模と経緯を見れば一目瞭然なのです。個人が発注する数字というのは、せいぜい数千枚まで、といった所だと思いますが、キャリアを積み、技術を高めた所は、何万枚、何十万枚と、同じ仕様のものを繰り返し印刷してきた経緯が、そういった難易度の高さを生んでいます。また、技術の高まり=その工程の複雑さを日常化してしまっているパターンもあります。発注者がその仕様に合わせる為に、様々なものを用意しなければいけない難易度の高さです。これも恐らくは「頼みやすさ」を発端とする難易度と定義する事が出来ますし、同時にこれらを意識しクリアをしていく事で、他の難易度も緩和されるはずです。自分にとって、相応しい印刷とは何か、今、自分が作ろうとしている印刷物は何か、など、きちんと難易度を選び取り決定する事で、より明確に頼む場所が見えてきますし、仕上がりが分かってくるかもしれません。では、私たちは何の為に技術を知ろうとしているのでしょうか。または、印刷の側も何故、発注者に技術の解放を行っているのでしょうか。この件に関しては現状、疑問を感じずにはいられません。もちろん技術を学び、新しい知識を手に入れ、印刷の発注の機会を伺う事はとても大切な事だとは思いますが、発注者と印刷所の距離を縮める事は、もしかしたら、善い印刷の発注者を生む事になるのかもしれませんが、最近の動向として、印刷所が恐くない場所であり、皆んなの場所なんだよアピールが横行しつつあるようにも見えるのですが、これは、本当に印刷にとって正しい道なのでしょうか。本当に善い発注者を生む行為と言えるのでしょうか。印刷を策定する上での難易度設定において、なんの達成にも成っていないようにも感じますし、なによりも、目新しい、分かりやすい、崇高な技術というのは、すぐ消えます。これは既に様々な分野が経験してきた事だと思うのですが、印刷の技術は果たして、そうあるべきものなのでしょうか。だって、印刷加工技術なんて、どんなに見せ方変えたって、そんなに変わらないし、で、あるならば、オフセット印刷界隈の純粋に技術を追いかけて、その専門性の高さを維持している方が真摯な姿勢でありつつ、そういった技術の難易度を下げる作業の方が、とても印刷の世界に貢献出来ているし、そういう意味で文脈としての「過去」の技術としての印刷、というのは同時に希少価値も高くなる、という事だと思います。少し後半は某加工連に向けた目線で書いてしまったが、こういった現状に対して、難易度を設定し、意識した上で解決に向かう視点の育みは、そういった消えそうで、もがいている古い技術に対して、今の最先端の技術との連携を生み出すきっかけになるのではないか、と期待も込めています。

低予算での印刷の正しき捉え方と実践

印刷は金が掛かる。でも掛からないというイメージも同時に持たれている。これを低価格帯に抑えた加工所の存在を否定出来る問題にしていはいけないし、実際のところ、かなりグレーなところもあるが安価だととても便利で使い易いとも同時に言える。また印刷と一口で言っても、その種類は多岐に渡っているし、一概に印刷だから高いとか安いとも言えないのが現状だと思う。しかし、それでも印刷は金が掛かる、という意識は常に持ち続けておいた方が良い、何故なら、そうしないと印刷自体が死んでしまうし、その中に居る人でさえ殺す事になる。印刷を安くする、という意識を持つ事が既に印刷を放棄しているし、印刷はそれくらい高度な技術を持ちえた製造ラインなのだ。ただし、だからといって高価なものが常に正解という訳でもないと思う。その中においても低予算というものの捉え方が出来る範囲というものがあって、それは考え方1つの変化で「印刷を実現」に至るとても実践的な方法とも言えるのだ。元来、印刷というものは、2次元の情報を複製する目的で考えられたものである。複製し、その情報を流布する事が、文化的、意識的にも高度なものとされてきた。同時に造形的な価値についても、印刷初期から備わっている事も注目すべき点である。とくにリトグラフの時のロートレック、ミュシャなどのポスター芸術は、複製という名の印刷に美術的価値のようなものを与えたのと同時に、広報やパッケージの面で強く影響し、そういう方向の美に対する関心を引き寄せる結果になった。それは今日まで像として再現度の高さの技術の高まりとして続き未だに発展し続けている。数を多く、同じ造形物を作り上げる事は製造にとっての根本であり、同時に私たちの美術的な観点を拡張してくれる手段としても、とても有効的に働く、そしてその一面としてデザイナーという存在が活躍し続けているのだ。しかし、発注者はデザイナーではない場合が多いし、印刷というものに慣れていない方が自然である。製造の中でも印刷は、紙、という扱いやすい素材のおかげか、とてもその技術の種類は多岐に渡ってたくさん存在している。今、新たな視点として、技術だけを抜き取り今までに無い目的や利用を促す流れというものがある。極端な話、製造という名の複製の概念を取り抜いて、造形的な部分だけをクローズアップして伝えたり、実現、実践している例もあるようだが、このプリパブでは、その流れ、またはそうやって誕生したものについては否定的な立場にある。それは、これらが実践ではなく実験だからだ。印刷の技術は多岐に渡っているから、今、実験的な制作は安易に思い立つし、実現にも至りやすい。だが、そういった姿勢のものを、いざ実践しようとした時に予算的な問題や製造的な問題が、かならず発生する。そのようなものは、印刷にとっての実験とさえも言えない。しかも仕上がったものは単なる造形であって製造でもない。印刷にとって実験であるなら、それが製造されるという事を実験されなければならない。印刷という技術において造形という一面のみをクローズアップして形にする事は技術そのものの高騰に及ぶし、それが印刷にとっての価値になったとしたら予算の確保が難しくなり、製造数が著しく減少する結果となる。そして印刷が死ぬ。何故なら、印刷は数の単価だからだ。数が減ると単純に収入が減る。機械を動かすには一定の金が掛かる。そうなると、自然と、単価が上昇し、または技術料が発生し、印刷というものが本来の製造という意味から外れてしまう。「印刷に拘りたい」のであれば、その拘るべき視点が必要なのだ。前述のように、技術の種類に拘った印刷という捉え方をした場合に、しかも低予算である場合に、とてもじゃないが実践的ではないし、とてつもない予算の額で動かせれるなら話は別だが、低予算において、そのような拘りはどちらかが死ななければならない。それが正しい認識だとはとても思えないのだ。低予算での印刷の方法は幾らでも存在している。それらが単に、今、認識されている印刷にとっての拘りというものとは肌色が違うだけで、印刷として成立している、しかも低予算で実現が可能、なものというのはとても崇高で、それもまたれっきとした印刷なのだ。印刷は金が掛かる。印刷にとって、お金を掛けるポイントというのは何処にあるのか、また、それがどのように作用するのか、それらを想像し予算を考える事で、より実践的で美しい印刷に至る事が出来る。ある美しい基準を印刷にぶつけるのではなく、印刷が持つ美意識の限界を理解し、その中で美しさを謳歌した方が、もし、低予算の場合に、発注者にとっても、印刷者にとっても、お互いが死なずに済む実践的な方法だと言える。また、あなたの予算ならこれくらいの事が出来ますよー、という指針を打ち出すのも策定であるし、そういった場合の手助けになると思う。

紙の選定を行う目線

印刷の紙はどのように選べばいいのだろう。様々な観点があると思う。日本の場合は、とても紙の種類が多い。製紙にしろ、洋紙、和紙、企画系の紙などなど、用途やニーズによって様々なものが揃えられている。感性やセンスといった五感で選ぶ人も居るだろうし、技術によって、その区分けで選択する人も居る、それは、どちらも間違いではないし、正直なところどっちでもいい話ではあるが、実際の所、印刷にも様々な種類や技術があって、それらに適した紙というものが存在している。物理で押す、刷る、という共通項において、それはとても重要な事だ。何故なら綺麗に刷る事と、汚く刷る事は、それそのものの善し悪しの以前に、策定を行う上でかならず考慮に入れなければならない事だからだ。その印刷は、その品質に見合っているかどうか、時には綺麗に刷らなくてもいい場合もあるだろうし、汚くても問題ない場合だってある。それらをキチンと分かった上で行うのが策定というものの役目にあたる。今までの印刷は、自分たちの置かれている状況の範囲内で価値体系を算出し印刷の善し悪しを決定してきた。それが所謂ところの業界と言われている範囲での、立場の強さや、こいつ分かってねー感で閉じてしまうあの感じである。策定は、印刷からそういうものを一切の排除が出来る上に加えて自由を与える事が出来る。紙の選定もそういった枠内に現在も置かれている現状に目をやらなければならないと思う。1つずつの紙も、そもそもは目的に沿った所から誕生しているが、その目的を一旦果たし、残り続ける事で、別の用途と手段で用いられる例も少なからずあるはずなのだ。その意識の水平思考とも言うべき思考の移転のようなものを、即興で組み立てるのではなく予め予想しておく事で、可能性は広がり、あらゆる状況への対処がとてもやりやすくなる。プリパブでは、其処を重点的に取り揃えておきたいと思うし、重要な部分として、何度も解説する事になるだろう。日本には紙の種類が多いので、状況に合わせて、ついつい、1つの物事ずつで考えてしまいがちである。もちろん何度も回を重ねれば、パターンが見えてきたり、印刷所によっては技術の経験値や、機械によって定められた範囲というものも存在している。ただし、それらは今までに培ってきた自然発生での策定によるものに他ならない。一度、実際の印刷に踏み込む前に、このような印刷と加工を行う上での紙を想像をするだけで、本番での仕上がりがかなり変わるのと、それこそが紙を選定する正しき姿勢でありプリパブで一番伝えたいことなのだ。同時に今現在、そのような策定を多く持ち得ている人達というのは専門分野に寄ってしまっている。そうなると、こいつ分かってねー感を出してくるのは仕方のない事なのだが、プリパブでは、そこらへんの所を知らない人でも勇気を持って印刷所に発注が出来るまでを作り出したいのだ。その中で、紙の選定の部分で、どうやらつまずく人達が、印刷技術の種類を選択する以上に多いように感じている。fengfeeldesignも何度も経験した事なのだが、紙を選ぶ時、日本人は、目がとても肥えていて、いいな!と思ったものは大概、金額が大きい場合があり、その、いいな!という意識部分で予算が適わない金額の紙を、似たもので代用する形で選定すれば、その似たもので実現出来たとしても価値体系として、どうしても目落ちしてしまう現象があるが、それは紙の良さ、という1つの観点でしか見れていないからで、それはとても勿体ないし、目落ちしてしまうと判断された紙で、実際にそうであったとしても、それはその紙の作られた本来の目的に沿った策定によって選定されるからこそ輝くのであって、その即興で作られた策定における選定観に合わなかったというだけの話なのだ。紙の選定は、印刷の技術という純粋な観点でみれば膨大なパターンのようにも見えるが、業界と言われるシーン、カテゴリーに分けてしまうと、本来の紙の目的やルールが見え、その選定の幅がとても縮まるのもまた事実だ。しかし、だからと言って、今、印刷を行いたいと思っている人達のニーズがその業界という状態にあるとは限らないと思うし、今やプロフェッショナルではなくても発注が可能な現状の中で、それに答えていく事はとても意味を持つ事になると思う。だからこそ、そのような新しい発注者にも、今まで専門分野に寄っていた人々にしか出来なかったクオリティを達成する場合に、紙の選定にも、目を向けるべきだし、印刷を策定する視点での紙の選定という在り方を是非知ってもらいたいなと思います。

モニターと印刷の違い(または、表されるものの再現性について

アドビイラストレーターの精度ってどれくらいなんだろう。各種ドローイングソフトも含んだ上で、印刷技術がデータに忠実である事を前提として、あのソフト群が数値として表す、その感覚は、どの程度それまでに培ってきた筆やペンや鉛の状況を作り出してくれるのだろうか。画家の人とお話しした時に、『PCで利用されているハイエンド系のドローイングソフトの全てを試したのだが、どうしても「線が丸くなる」』というお話しを聞いた事があります。どんなに解像度を上げ、どんなにデータ上で鋭角にしても、その画家が用いる技術の意味での鋭角を、PCでは再現出来なかったのだそうです。今までに、一般的なものからハイエンドなスキャナまでを試した経験で答えれる事があるとすれば、原画をスキャンをした時に、圧倒的な平面として、モニターに表されるのですが、恐らく、画家がコントロールしている線というのは、おおよそ平面な紙の上であると考えられます。しかし、例えば、その紙にも、実はとても小さな凹凸があって、画家の感じたPC上での鋭角の違和感というのは、その凹凸の角度を無意識の内に利用し作り出された立体的な鋭角だからではないかと推測が出来ます。画家が認識するレベルという限定ではありますが、それを圧倒的な平面であるモニターで再現する際に、スキャナの時点で崩壊するのですから、そのデータをモニター上でどのように修正したとしても、その凹凸を意識しコントロールする事は到底不可能であると考えらえるとともに、それに加えて、印刷の場合にも、例えば、版に仕上がった時点で、紙をどのように工夫したとしても、その再現を達成する事は無いのだと思います。また、違う画家の方とのお仕事の際に、「データはこちらで(画家側で)用意する」という事で、画家の方が自ら、データまでを責任を持って、それまでを完成としているというものがありました。そのデータというのが、とても特徴的で面白いものに仕上がっており、普段、「綺麗に印刷する」という観念で用意するデータとは少し趣の違うものでした。画家自身が原画をモニターに移行し、それを印刷に廻す為のデータとして作成する、その限界値みたいなものを悟っているかのような、とても不思議で、刷りの結果の素晴らしさから、それからのデータ化にとても影響する結果となりました。こんな感じで、やはり、感覚の鋭敏さ、意識の強度みたいなものは、今まで培ってきたものの方が有利であるなと思ったというのあるのですが、これはあくまで、ある感覚をPCというものを使った印刷という利用に特化した場合に、その再現性について、チューニングすると言った視点でのお話です。モニターと印刷の違いではなく、この事について書いたのは、モニターと印刷の違い、という感覚が、前述のような感覚にとても似ているからです。彼ら画家は、あくまで、それまで培ってきた技術や感覚の再現を印刷で行う際に、今の技術の在り方の欠点や、模索の結果を示してくれたに過ぎず、彼らは画家であるし、画材や、支持体の時点ですでに完成しており、それらを再現し刷る行為というのは、オリジナルの劣化を量産するという概念から外れる訳ではなく、印刷技術の高まりの方向の1つ、または、その策定の1つとして挙げられるものであったとしても、それは、再現性という意味や枠からは外れる事のない、なんとも抜け出せない人の感覚の迷宮なのですね。モニターという修正が効く中間地点が発達したおかげで、またはオフセットに纏わる印刷技術、写真製版などなどの発達で「とてつもなく再現性が高まった」とも言えますが、同時に表される印刷に対しての「違い」にも敏感になるようになるという新しい感覚を生み出しました。それが画家であるなら、凄く大きな深刻な問題として表面化します。Kaleidoに代表されるような技術の在り方もその代表格の1つであると言えますが、そのような問題を新しい技術が解決してくれるかもしれません。トリプルトーンもそうですね。モノクロ写真に対しての印刷の解答なのでしょう。この再現性についても、印刷技術の1つの方向なのですが、最近はとくに「モニター」を再現する事に技術の高まりが向いているように思います。この精度の高まりが、今まさに印刷技術として発展を遂げている最中であり、技術を読み解く大切なポイントになります。また、ここで重要な事は古い技術だから再現性が悪いというものではありません。古い技術には、古い技術がもたらす方向の再現性の高まりが、それはそれで存在しているのです。つまり、活版印刷だから、再現出来ないものがたくさんあるのではなく、今や活版印刷でさえもイラレのデータで版の作成を行います。その再現性と精度はとても向上しているのです。もしくは、そのおかげでそれまでに考えられなかったような活版印刷が可能になるかもしれません。印刷技術を見る時、モニターという名の中間地点、またはイラレ、またはドローイングソフトで印刷を制御するのであれば、そういった技術の発展の在り方に注目する事で、解決する問題が増え、技術に合わせて印刷への考え方も変える必要が出てくる事でしょう。また、それらをコントロールする為にも、より多くの策定をし、発展させ、実際に実行する事はこれから大きな意味を持つと思います。