沈黙シリーズ、というかセガールについて

セガール映画と言ったところで一体今何人の人が彼の出演作を追いかけていることだろう。もちろんTSUTAYAやGEOに行けば新着コーナーに彼の作品は並んでいるし、AmazonプライムやHuluといった動画配信サイトを見ても彼の出演作というのはいたるところに転がっている。しかし木曜洋画劇場が終わり、テレビの地上派で彼の作品が放映される機会が減った今、今後僕のような90年代育ちの人間が小学生時代に楽しんでいたように、夕刊のテレビ欄の下の広告スペースに『グリマーマン』や『イントゥ・ザ・サン』の劇場公開の広告が載っているのを見てワクワクするようなことが今の小中学生の間にあるとは思えない。もちろんその頃からアーノルド・シュワルツェネッガーの作品やシルベスター・スタローンの作品を追いかけるという人も中にはいるだろうし、動画配信サイトやユーチューブで映画の一部がいくらでも観れるようになった今、そういった一人のアクションスターの出演作を全部追いかけるにはおそらく近所のGEOしか映像作品と触れ合う機会がなかった小学生時代の僕よりもずっと環境には恵まれていると言える。しかしわざわざシルベスター・スタローンやブルース・ウィリスを好きになる必要がないし、ハリウッドのアクション超大作の基本トレンドがアメコミのヒーローものかスターウォーズのパクリみたいなSFアクション一色になっている今、どこにもかつての筋肉スター映画の入り込む余地はなく、年齢的にもそういったスター達が続々とアクションが出来なくなっていき、かといってそれ以外の魅せ方で活躍するチャンスもないから次々とスクリーンの中心から姿を消している状況の中で、以前のようにライトな映画好きの子供がそういった映画に触れ合う機会は激減しているのではないかと思う。

いや、もう2017年の現状的にはだいたい壊滅していると言った方が良いのかもしれない。アーノルド・シュワルツェネッガーもターミネーターの最新作に顔を出した以外は今ではほとんど俳優というより元政治家のテレビスターという立ち位置に行ってしまっているし、最近ではドナルド・トランプが司会をしていた番組の後釜に座っているらしい。スタローンも2014年までは『エクスペンダブルズ』シリーズや自身のはじめたシリーズ、『ランボー』と『ロッキー』にそれぞれ素晴らしい有終の美を飾るという立派な仕事をして元気な(ギリギリ)姿を見せていたが、最近ではまた方向性を見失ってしまったのか、それとも完全にやることをやり遂げたのか、映画出演からは距離を置いている。ブルース・ウィリスはアメコミ原作の『RED』シリーズでは往年の張りを見せてくれたものの、基本的に90年代頃から何の進歩もない同じような演技の連続で、この人が一番出演作品ごとの差違を捉えにくい。ニコラス・ケイジは2009年のドイツの名匠ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品『バッド・ルーテナント』ではこれまでの自身のダメ人間役を総括したような素晴らしい演技を見せてくれたが、あとはずっとあの顔で焦ってるような低予算の映画に出続けているだけで、ざっと見渡して今現役で一線で活動を続けている90年代のアクションスターというのはほとんどいないのではないか、というのが現状だと思う。もちろん新世代のアクションスターというべきジェイソン・ステイサムや、『96時間』シリーズで突然海面に浮上したようなリーアム・ニーソンは、それぞれがそれぞれなりに独自の”アクション映画のいい感じ”を体現してくれていてとてもいいのだが、単純に、昔のスターが全員ゆるやかに坂を転がり落ちていっている感じが寂しい、という個人的な感傷を拭うことができない。おそらくこのままいくと、というかすでに今の小学校1年くらいの男の子にとっては初めて見るアクション映画は絶対リュック・ベッソン監督じゃないし、レニー・ハーリン監督の名前を今後どのくらいの人数が新しく覚えるのだろうと思うと絶望感で胸がいっぱいになってくる。僕の中学の時ですらトレンドはすでに『スパイダーマン』や『ハリーポッター』シリーズに移行していた。今後どれくらい90年代風味のアクション映画のファンが増えるかと思うと、供給以前に需要の段階で意識の変化が起きてしまっていると思わざるをえない。このまま行くと日本の伝統産業ではないが(後継者一人系)、このハリウッドが80年代から90年代にかけて完成させたアクション映画というジャンルも、かつての西部劇のように消滅していく一方なのではないかと思われる。しかしこうしてアクションスターがアクション映画という文化ごと坂を転がり落ち、そのままトップスピードで柵をブチ抜け、海に向かって綺麗な放物線を描いて消えていっている中で、坂の途中でスピードを落とすことに成功し、あとはずっと薄暗い路地裏で活動を続けている、そんなアクション俳優はどこかにいないのだろうか?そう考えた時にスティーブン・セガールが浮上する。

おそらくスティーブン・セガールが落ち目と聞いて、ピンとこない映画ファンの方もいるだろう。というのはスティーブン・セガールは落ち目とか落ち目じゃないというより、ずっと同じようなことをしている印象(落ち目とかいう以前の問題)しかないからで、確かに全国の劇場で映画が公開される機会は減ったが、単館で上映される映画作品、つまり毎年制作される主演映画の本数はヴァンダムやドルフ・ラングレンに比べて多いし、シュワルツェネッガーやスタローンに比べるとものすごい勢いで作品が作られ続けている。また、他の落ち目なアクションスターと違い、近年の「落ち目になってからの作品」ともいうべきやや低予算のヨーロッパロケのアクション映画のようなものでも午後のロードショーなど地上波で放映される頻度が高い。だからユーチューブを調べればいくらでも主演作品の劇場予告編を見つけることができるし、出演作のアクの濃さから来るネタ濃度から、ネットでの知名度も高い。だからここ日本ではセガールは落ち目ですらない、そもそも最初から一定のファン相手にしか商売をしていないような、不思議な定着感、ファン層があるような気がする。

しかし実はこんなに安定した人気があるのは日本だけで、本国アメリカでは1998年の『沈黙の陰謀』以来、セガールの出演作品はほぼ90%以上がビデオスルー扱いとなっている。つまりもう20年以上、アメリカ本国では一部の例外を除き、セガールの主演作品は劇場公開すらされていない。日本では出演作品ほとんどになぜか「沈黙の◯◯」という邦題がつき、それが勝手に沈黙シリーズと呼ばれることで、セガールブランドともいうべき安定感を築き上げることに成功しているが、おそらくアメリカではセガールは「同じような映画に延々出続けているB級アクション俳優」でしかないのだろう。セガールが十三に住んでいたことなど大部分のアメリカ人にとってどうでもいいことだし、セガールの娘と息子が日本でタレント活動をしていたことなどさらにどうでもいいことだろうし、セガールが時々話す奇妙な日本語にキュンとくるようなアメリカ人はおそらく0に等しいのではないか。そう考えるとセガールの人気というのは、ここ日本で作られたもの、ここ日本だけで通用するブランド、という気もしてくる。『マチェーテ』(2010年)のような作品に取り上げられるほどそのキャラクター性だけは海外でも浸透しているようだが、そもそもアメリカにはチャック・ノリスというセガールを優にしのぐmemeマスターがいるし、セガールの主演映画を沈黙シリーズという勝手に作った言葉でブランド化し、堂々とシリーズ物のふりをして配給し続けているような国が、ここ日本以外にあるとは思えない。事実近年のセガール映画の中には本国でビデオが発売されるよりも前に映画が日本で公開されるという謎な逆転現象まで起きており、セガール映画にとって日本という存在がますます重要度を増していることを感じさせる。

こうした本国では90年代末に坂の下まで転がり落ち、以降20年に渡ってビデオスルー俳優であり続けるセガールが、ここ日本でだけ長きにわたる支持と人気を得られてきた理由は一体どこにあるのだろうか?それはやはり、「沈黙シリーズ」というネーミングにあるような気がする。「座頭市」や「寅さん」もそうだが、長く続いているシリーズというのはそれだけで観る者に一定の安心感を与えさせる。それは『スピーシーズ2』や『プレデター2』のような、3が作られてないけど大丈夫?みたいな不安を感じさせない。『ターミネーター』もシリーズごとにタイトルが違えば誰も全てみようとは思わなかっただろう。同じ設定で違うロボットのデザインでいくらでもあのような話を作ることはできると思うが、それをあえてアーノルド・シュワルツェネッガーという俳優とあのデザインを使い続けてやることによって、多少彼の老化でアクションが地味なことになっても、2017年の今見てあのデザインのロボがさらに別のロボを動かして攻撃をしかけてきたりする意味がわからない、というかなしい気持ちに包まれても、ターミネーターだから、という理由でとりあえず劇場に足を運ぶ人から利益を得ることができる。『スターウォーズ』のローグワンも、なぜ作られたのかきっと永遠にわからない『インデペンデンス・デイ2』も大方この安心感にすべてを投げている。沈黙シリーズもそうである。なぜセガール以外の映画スターが坂の下を転がり落ち、セガールだけが途中で止まれたかというと、沈黙シリーズという日本で勝手に作られたブランドが、その安心感で観客を掴み続けたからである。ヴァンダムも実は非常にコンスタンスに映画を作り続けていて、『キックボクサー』のリブートや、『ユニバーサル・ソルジャー』の続編を何本も作っている。しかしそれがセガールほどの安定感を持って受け入れられないのは、やはりその1本1本が「有名映画の低予算の続編」にしか見られず、そんな映画に出続けているヴァン・ダムが落ち目な映画俳優にしか見られないからで、その段階を90年代の全盛期、『沈黙の要塞』から『沈黙の断崖』に至るあたりですでに通過したセガールにとっては、その後の作品はいくら低予算になりアクションがしょぼくなっても、「セガールの映画だから」「沈黙シリーズだから」という不滅の安心感によってすんなり受け入れられるものになっている。沈黙シリーズはそもそも(最初に何本かハリウッド超大作級の作品が作られはしたが)、セガールが落ち目になった瞬間、シリーズとして成立したと言っても良い。これがもし、出演作品すべてに『沈黙の戦艦』以前の作品のように1本ずつ味気ないカタカナに直しただけのような邦題がつけられていたとしたら、セガールが今のような安定感を持って受け入れられていたことは決してなかっただろう。それだけシリーズ、という概念には安定感と安心感があるのである。

そして内容もシリーズという概念に安定感と安心感を与える。セガールの沈黙シリーズにおいて、実は正式な続編は1作目の『沈黙の戦艦』と、『暴走特急』という沈黙シリーズの名前がついていない別作品だけである。これ以外に「沈黙」と名につく作品が27作品(TVシリーズの各話についたサブタイトルも含めると40作品)作られているが、どれも設定が違い、正式な続編ではない。というよりそもそも、セガールの出演作品に沈黙の名前をつける、という謎ノルマを配給会社が持っているだけで、続編だと宣伝されたことはおそらくないと思われる。この出演作品に「沈黙」をつけるかつけないかはおそらく無作為で、特に法則などはないと思われるが、2001年にジョエル・シルバープロデュースで公開された映画『DENGEKI 電撃』以降はしばらく『雷神 Raijin』『一撃 ICHIGEKI』『弾突 DANTOTSU』などの2字熟語+ローマ字読みのパターンの邦題がつけられていたこともあった。これは『DENGEKI 電撃』のセガールのキャラ作りがそれまで定番だった髷を切り、さらにちょっと痩せてスリムな体型になる、というキャラクターチェンジ要素が多く含まれていたために、配給会社がさすがに沈黙シリーズではまずいと判断したのだと思われる。同様の判断があったと思わせる事例は他にもあって、『イントゥ・ザ・サン』(2005年)は日本を舞台にしたキル・ビル的雰囲気のあるアクション映画ということもあってか、セガール映画にはかなり珍しく原題のカタカナ読みがそのまま邦題となっている。また、『沈黙の戦艦』以前の作品は全て原題→カタカナのようなシンプルな邦題が多い。しかし内容的にこれらの「沈黙シリーズ」「2字熟語+ローマ字読み」「原題→カタカナ」の作品に大きな違いがあるわけではなく、基本的にセガール映画のプロットは1作目の『刑事ニコ/法の死角』から一切変更はない。刑事ニコが88年の作品だから、実に30年近くセガールはそのプロットだけで疾走しているということになる。

おそらくネットを少し調べてもらえばセガール映画のマンネリ感、一辺倒感についてネタ的に解説にした楽しい記事はいくらでも見つかると思うので、ここではその概略だけを書いておくと、まず大抵の場合、セガールは元特殊部隊の隊員で、その立場を隠して生活している。最近ではのっけから特殊部隊の隊長をしている現役バリバリの兵士、という役も少なくないが、コンセプト的にはだいたい『コマンドー』のシュワルツェネッガーと同じであり、そんなセガールが何かしらの事件(テロか殺人)に巻き込まれることでストーリーは始まる。あとは敵を壊滅させてハッピーエンドというくだりも『コマンドー』と同じなのだが、その壊滅させるくだりに他のアクション映画にはない特徴があって、とにかくセガールは傷つかないし、敵をベルトコンベア作業のように一方通行的に壊滅していくのである。その一方通行感と圧倒的な強さがセガール映画の魅力であり、どんな映画でも見ていくうちに敵がセガールに何発ダメージを入れられたか?が鑑賞のポイントになってくる。驚くべきはこの圧倒的な強さというコンセプトが1作目の『刑事ニコ』から片時もブレていないことで、『沈黙の戦艦』をはじめとする沈黙シリーズでも一切ここだけにはブレがない。時々顔から鼻血を出したり、肩を撃たれたりしてしまうこともあるが、演技ができないのか、基本的にダメージが通ったという描写は皆無である。そしてそのアクションシーン中に見られるセガールの動きもかなり独創的で、一般にセガール拳と呼ばれる、彼が7段を持っている合気道の動きでは絶対ないということしかわからない謎の中国風拳法や、銃を必ず片手で斜め水平にして持つという奇妙なグリップの握り方など、挙げ出せば枚挙にいとまがない。そしてそういう共通点がどの映画でも必ず見られるために、セガール映画はたとえ一編一編が本来別々の作品であったとしても、沈黙シリーズという言葉によって一種のパラレルワールド的世界観の拡がりとして観ていくことができるのである。一編一編のセガール映画を別の時間軸、世界線だとした場合、30本近い沈黙シリーズとそこに登場するセガールがまた違う一本の別の作品として見えてくることがある。言ってしまえばセガール映画とは制作された本数に分割された約”2時間×制作された本数”時間ある一本の大長編映画ともとれる。だから細切れにされたほかの落ち目なアクションスターの作品と違い、沈黙シリーズはまだ、それが作られ続ける限り見終わった人間が一人もいない作品なのである。だからセガールファンという固有のファンが根強く作品を支持しているのだし、単館であれ日本で劇場公開され続ける。きっとそれは究極スティーブン・セガールという俳優の魅力ですらなく、むしろ宇宙世紀のガンダムを全部見るまではガンダムを見た気になれないような、ワンピースを87巻から読み始められないような、そういう何か作品と向き合った時に受け手側に生じる不思議な感覚のおかげなのだと思う。それが”沈黙シリーズ”という言葉に集約されている。そして『大菩薩峠』や『グイン・サーガ』と違って、セガールが映画に出れなくなった瞬間、最後の主演作品が即完結作品となる。決して未完に終わることはないが、出る限りは未完であり続ける、そしてその実態は続きものでもなんでもないバラバラの作品の集合体、監督も全員違うし、何より続き物である要素を担っているのは日本の配給会社の企画部だけ。こんな不思議なシリーズものを僕はほかに知らない。何か特定のものに番号をつけ整頓することで、それが1つの巨大な塊に見える。そこにあるのはただ、最初は「次のも沈黙の◯◯でいっか。」的な流れ作業だったのかもしれない(戦艦→要塞だから絶対そう)。でもそういうふとしたひらめきが、1人の映画俳優を長年活躍させたりする。そんな行き当たりばったりな、適当に組んだジェンガのような魅力が沈黙シリーズには溢れている。

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空想で0から漫画を描く過程「青のりしめじ」の場合

青のりしめじプロフィール
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京都精華大学/漫画学部卒
月刊タニシ連載作品『最強巻貝伝説』作画担当。
特撮ギター研究所、CRITERION FREAKのライター担当。
The Fallと変な音楽のファン。
何かありましたらお気軽にご連絡ください。→tukamal1056@gmail.com
japanese manga artist, illustrator, Writer.

ホームページ: http://www.aonorishimeji.com/
contact: tukamal1056@gmail.com

twitter: https://twitter.com/tukamal1056
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漫画のアイデアが閃く瞬間は人それぞれである。僕は日常何かしらいいなと思うフレーズに出会ったり閃いたりした時は、iphoneのメモ帳機能にぱたぱたと打って記録しておくことにしている。それは突拍子もなく誰か登場人物の長いセリフだったり、そういう一場面だったり、直接引用すると「レイジ・みのもんた」(おそらくレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンからきている)といった風のあとから見ると意味が全くわからない単なる文字の羅列(「MCなめろう食べ太郎」とか)だったりするが、そういうものを延々蓄積していくうちにふと瞬間にパズルが解けるみたいにタイトルがドーンと浮かんだり、この文字からだったらストーリーが作れるな、という呪文のようなフレーズに出会ったりする。あるいは”ティッシュ”や”養命酒”といった日常にあるものを組み合わせて、なんとなく「AとBが出てくる話」という風にストーリーに持って行くこともある。けれどもよっぽどジャンルを限定されたりする時以外は閃きだとか、ある思いついたシーンから演繹的にその時系列を発展させていくことでストーリーという話の流れを作っていくことが多い。また至極まっとうに、「◯◯のような人を描きたい」というところからストーリーを作っていくこともある。そういう時は図書館で本を借りて読むような取材もする。

僕は普段どういうわけか普通に街を歩いているだけなのに変な人や、変なことが起こっている瞬間に出くわすことが人より多いようで、友達からそういう人の噂話を聞くことも多い。そういう変な人の存在や噂もかなり話のネタになっていて、世の中にはこういう人もいるのかといつも驚かされる。電車の中で横に座った人が延々携帯で長電話して爆笑しているという些細なものから、三条大橋の橋げたから立ちションしているブルーシーターのおじさんの描く放物線、玄関先で「黄色(?)が!!黄色がそこらじゅうにあるやないか!!(意味不明)」と怒鳴っているおばさんまで、ほぼ毎週変な人に出くわしている。そういう人たちに同情の思いがあるわけではないが、そういう人たちから得たエッセンスのようなものを漫画に出したり素材として使っていくのは非常に楽しく、ついついそういうシーンを思いついてしまう。

とりあえずこの文章は『空想で0から漫画を描く過程』というタイトルなので、せっかくなので上に引用したメモのフレーズ、「レイジ・みのもんた」をそのままタイトルとして使って、「レイジ・みのもんた」という漫画を空想で描いていきたいと思う。

漫画を描く際に先にストーリーを完全に作ってからネームに入るタイプの人と、ネームを描きながらストーリーを考えるタイプと2つのパターンが存在すると思うが、僕は後者である。しかしながら文章でそれを同時にするわけにはいかないので、ここからはネームを描きながらストーリーを考えているていで、文章を書きながら「レイジ・みのもんた」のストーリーを考えていきたいと思う。実際の漫画制作ではこの文章に書いている部分を全てネームで描いているので、文章が書き終わった頃に実際ではネームができている、という形になる。

まず「レイジ・みのもんた」というタイトルを思いついた時点で、主人公は極めてみのもんたに近い何かである。おそらくTVの司会者で、午後は◯◯、みたいな番組の司会をしている。本名は御法川◯男で、水道会社の社長もしているが思いっきりブラック企業である。顔は色黒でいつもアシスタントの女性にセクハラをしては邪険に扱われている。二日酔いでテレビに出てはひとしきり偉そうなことをいうが、画面からは偉そうなことを言っているという印象しか伝わってこない。語彙も貧弱、しかしそれ故に同程度の語彙しかもたないおじさんおばさんから話がわかりやすいということで絶大な支持を集めているお昼の顔である。普通こういう人間ならめったなことで本気の「レイジ(Rage=怒り)」にとらわれることはないが、この漫画の主人公のみのもんたは怒っている。ということは彼はみのもんたでもなんでもない赤の他人である可能性がある。この時点でストーリーは次のどちらかのパターンだと思われる。このように選択肢をいくらか出してそこから選んでいくという作り方が話を作る上では一番簡単にストーリーができていくように思う。

1. 主人公はみのもんたである。みのもんたがレイジしてるストーリー。
2. 主人公はみのもんたではない。”レイジ・みのもんた”という人物がおり、彼にまつわるストーリーである。

この時点での個人的な印象は2の方が作りやすそうだが先が見えているな、という印象である。このストーリーを2だとした場合、おそらくレイジ・みのもんたという人物は自分をみのもんただと思っているか、周りからみのもんたとあだ名される公園のネバーエンディングキャンパーである。年恰好もみのもんたに近く、カセットコンロとフライパンを持っていて、冬になると公園の水道水をフライパンで温めてはそこにワンカップを入れ、それを周りのキャンパーに高値で売りつけて商売をしている皆の嫌われ者である。些細なことですぐ怒り、小さい盗みを何度も働くので人間的な信用はない。そんなある日彼が公園に帰ってくると彼の紙製の家がぐしゃぐしゃにされた上、カセットコンロがフライパンで滅多打ちにされどちらもボコボコに壊れていた。食事を作る手段を奪われた彼はなんとかお恵みをもらおうと周りのキャンパーに頼んで廻るが、誰も食事を恵んでくれない。そのうち不良中学生グループが彼のもとにやってきて、ベンチでしょんぼりしている彼を見て笑う。それにカチンときた彼は中学生に罵声を浴びせるが、よく見るとその中学生グループはどう考えても手をだしてはいけないような不穏な空気をビンビンと発するヤバそうな子供達で、さらによく見ると全員片手にバットを持っている。必死に謝るも噴水のところまで引きずって行かれたみのもんたはそこで水中土下座を強要され、噴水の中に膝をつき、ゴボゴボと顔までつかって必死に土下座してみせるが、不良グループは彼が水につかったことによって漂ってきた悪臭に激怒し、バットを縦に持ち突き刺すように彼の後頭部に叩きつける。こうして土下座したまま動かなくなった彼をおいて不良グループは全員噴水に浮かぶ彼の頭におしっこをかけたあと意気揚々と立ち去っていく。その晩彼の家は他のキャンパーによって完全に荒らされ、次の日奇跡的に生きていた彼が目を覚ました時にはもう何もかも終わっていて、彼自身噴水に浸かりすぎたことによって体が低体温症になっており、脳も後頭部を破壊されたことにより意識と機能の一部を失っており、彼は「どうぶつ奇想天外!」と叫びながら服を脱ぎ捨て公園を飛び出し、飛び出してきたトラックにはねられそのまま天国に向かう。最後は神様の前で自分の人生を不幸にした(と彼が勝手に思っている)神様に彼が怒鳴り散らしているシーンで終了。ざっと思いついたあらすじを書いてみたが、あまりおもしろくない話になりそうである。そして2でこれということは1もそんなおもしろい話にはなりそうにない。なんといってもみのもんた、というフレーズが既に旬を過ぎていて(僕の中では全然過ぎていないが)、今更名前を出したところで誰も覚えていなさそうな感じがするし、人物にも絶望的に魅力がない。だからこのタイトルでストーリーを作るなら、みのもんたらしさを保ちつつも、レイジという部分にもっと味付けがあった方がおもしろいものを作れるのではないだろうか。

と、ここでストーリーの方向性に更なる分岐点が見出される。この場合ストーリーは、

1. レイジ・みのもんたとは何なのか?という部分がキモになる/レイジ・みのもんたという存在が主人公の作品
2. みのもんたがレイジする状態がおもしろい/みのもんたのレイジの描き方がおもしろい作品

のどちらの要素を足した方がよりおもしろくなるか、ということである。ここで真面目に

3. お昼の情報番組で頑張るベテラン司会者が徐々に狂気に飲み込まれていくサイコサスペンス

という要素を組み入れることも可能だが、そういうストーリーにしてしまった場合、ストーリーが真面目になるのでタイトルのパンチが弱くなってしまう。ページ数もかさみそうである。と、考えるとやはりみのもんたは実際の本人ではなく、それっぽい架空の人物、にした方がタイトルに華が出るような気がする。つまり架空のみのもんたっぽい人がただキレてるだけ、というタイトルの作品である。それなら架空のみのもんたはアレっぽい人であればあるほどおもしろく、本物のようにTVで司会業をしてればしてるほどつまらなくなる。ということはやはり、架空のみのもんた氏は倉庫で仕分けのバイトをしている50代フリーターか、ネバーエンディングキャンパー、それかよくわからない街で見かける妖精のようなおじさん、であった方がおもしろい。それらの要素をすべて混ぜて、ネバーエンディングキャンパー風の、どこで何をしてるかわからないが、倉庫の仕分けのバイトをしている、仕事のできない御法川◯男風のルックスのおじさん、ということにしてみよう。

主人公のキャラ付けが決まったので、次は舞台の設定である。倉庫で仕分けのバイトをしているので、舞台は倉庫で、おじさんは派遣のアルバイターである。派遣会社の社員は全員おじさんより30歳くらい若い20代で、社長はブイブイいわせてる系の新庄系のファッションをした眼光からクズであることがストレートに伝わってくるタイプのガングロのチャラ男である。おじさんは彼に直接面接を受けたが、その時からずっと彼に対して猛烈な嫉妬心を抱いており、いつか一発逆転してぎゃふんと言わせてやる!と思っている。おじさんはそんな自分の年齢でまだそんなことが、時給850円のバイト風情でもできると思ってるくせに、宝くじを買うということすらしない、それ系の人特有のヤバさを存分に併せ持ってる系の人物である。誰にも聞こえない音量でいつも独り言をブツブツ言っている。当然メンタリティも幼稚で、バイト仲間も全員年下の18くらいの若者か、自分と同系統だがまだ自分より10歳くらい若い、無口で髪ボサボサで変な腹の出方をしている顔のやつれたデブしかいない。そんな環境で誰とも喋らず、話しかけてももらえず、薄暗い倉庫の中でベルトコンベアに乗って流れてくるダンボールに手元の商品を1つずつ詰め込んでいくのがおじさんの仕事である。その流通倉庫はおじさんの最寄駅から車で10分ほどの距離にあり、毎日派遣会社の社員がおじさんと何人かの同シフトのバイトを乗せ送迎している。その送迎が終わると同シフトのバイトが各派遣会社ごとに集められ、その日の軽い朝礼のような引き継ぎと伝達が行われ、その後倉庫の各部門にバイトが仕分けられていく。仕事のできる若いバイトの子は日によって忙しい部門をまかされたりして様々な部門で働けるが、仕事のできないおじさんは最初からずっと一つの部門で働かされており、誰も口に出しては言わないが、全員の仕事を止めているクズとしてべっ視されつつ、内心どこかでこいつがもっと仕事したら俺たちも忙しくなるから、こいつにはこのままダラダラ仕事して社員さんのこいつへの評価だけがガンガン下がりつつ俺たちは楽できる環境が保たれていてほしいなー、と思われている。だから他の仕事のできるバイトっ子たちにとっておじさんと一緒の部門になる日は(おじさんという存在に目をつぶれば)ある意味当たりでありご褒美でもあった。そしておじさんはそんな引き継ぎの際だけ顔を見る、バイトリーダーの40代中盤の主婦と思われるおばさんのことが気になっていた。おばさんが唯一の女性だということもあるが、バイト仲間の顔のやつれたデブがそのおばさんと少し長めの立ち話をしているのを見て、自分よりクズだと思っていた若人が自分より流暢に女性と会話しているのを見て許せなくなり、その意識がおばさんに移ってそれを恋心と自分で錯覚してしまったからである。
このような環境でずっとバイトし続けているおじさん、というのを状況として設定に取り入れたいと思う。

先の公園の話とほとんど変わらないと言ってもいいようなストーリーになりそうな設定だが、バイトとかそういう日常的な停滞感というのはストーリーから起伏を奪い、またある種の雰囲気を造成するできる優れものである。だからこういう状況というのは公園とかブルーシーターといった少し特殊な、何がどうなっているのかいまいち想像のつかない世界観を勘で描こうとするよりも自然と雰囲気が出せるような気がする。あとは過去の人生で遭遇した彼らのような人に対する同情心というか、ifの部分でどういう想像がこの状況からできていくか、を組み立てていくだけである。

僕がここまで書いてきてこのおじさんについて気になったことは、おじさんがどうしてこういった人生を送ることになったかという点、そしておじさんはこのままこの人生を続けていきたいと思っているのか、という点の2つである。おじさんが一人暮らしかどうかも気になる。しかしもしおじさんが実家暮らしなら、家に帰って偉そうにできる環境がある以上、いつでも仕事も辞められるわけだし、そこまでおじさんの中で怒りや憎しみが吹きだまって噴出する、ということもなさそうである。ということはやはりおじさんは一人暮らしで、そして何か人生の目標なりそういったものをもってこれまで生きてきたけれど、結果としてこういう状況になっていることを、まだこれは結果じゃない、どこかへ向かう道の途中なんだと自らに思い込ませて、あるいはそれすらなくただぼんやり生きている、そしてそれによって現実との摩擦で一層心が歪んでしまっているかわいそうなおじさん、ということにしたほうがよさそうである。

ここでおじさんの目標と「レイジ・みのもんた」というタイトルがかぶる。
なんとなくここで、このおじさんはみのもんたを目指してタレント活動をしている//してるつもり、のおじさんか、かつてみのもんたのそっくりさんとして一世を風靡したが、今は(当のみのもんたが消えたせいで)仕事を失ったそっくり芸人、という設定が頭に浮かぶ。あるいは単純にずっと御法川に似てると言われいじられてきた、というのもいいだろう。おじさんは日頃から「おい御法川!」などと言われ同僚からからかわれ、肩身の狭い毎日を送っていた。合コンに呼ばれても部屋に入るなり女の子に御法川入ってきたんですけどーとか言って笑われひと笑い取れれば即帰らされるネタ要員。こうして生きて行くうちにおじさんの心は歪みに歪み、ついには自分の人生も見失って(あるいは人のせいにするのに落ち着いて)流通倉庫のピッキングのバイトをする人形になってしまった。それだけならブルースでもないただのかなしい話だが、おじさんに何か色を添えることによってより一層おじさんをみじめに見せることができるなら、ぜひそういうアイデアを閃きたいものである。こうして思考がおじさんの周りをぐるぐると回り始める。

1. おじさんはみのもんたのモノマネタレントを目指してる50歳フリーター
2. おじさんはかつてモノマネタレントとして2つくらいのTV番組に出たことがある50歳フリーター
3. おじさんはみのもんたと顔が似ていることで皆からいじめられ、そのせいで心が歪んでしまった50歳フリーター
4. おじさんは自分はみのもんたと顔が似ている、だから皆にいじめられるんだと一人合点しているが、実際は別にそういうことではない、とにかくただの50歳フリーター
5. おじさんは昔一度だけみのもんたに似てると言われたことがあって、それ以来自分もモノマネタレントになれば一攫千金なのにチャンスが回ってこないなと思い、毎週日曜になると渋谷の街をウロウロしてスカウトされるのを待っている、とにかくただの50歳フリーター

ざっと思いついたものを5つほど書いてみたが、この中で選ぶなら5だろうか。5を設定として取り入れることで、ストーリーにも最低一度は場面転換の機会がやってくることとなり、起承転結を作りやすくなる。さらに渋谷という街中を設定することによって、おじさんが暴れた時おもしろいことになりそうだなーという感じを出すことができる。この感じを出すためには倉庫と渋谷の場面を最低2セットは繰り返さなければならない。と考えたところで「おじさんが暴れる」のが話のクライマックスとして固まってくる。

だんだんストーリーが煮詰まってきた。

このストーリーの基本的なあらすじは、

1. 50歳のいろいろきてるフリーターのおじさん(生涯で一度だけ御法川法男に似てると言われたことがあり、以来それを引きずって生きている。夢はモノマネタレント)が、
2. モノマネタレントに憧れスカウト待ちをしながら倉庫と渋谷を行き来する生活を送るが、
3. なんだかんだでブチギレて
4. すべてがオシャカになる(?)

である。この時点で1と2はあとは細部の演出で膨らませれば良い。ここで次に考える必要があるのはまだ骨組みだけであやふやな3と4である。まずエンディングとしてどういったものが一番良いのか、「レイジ・みのもんた」(別にいいエンディングが決まればこの言葉がタイトルである必要もないのだが)というフレーズにハマるのか、ということから考えていこう。

僕はシンプルに渋谷の交番でおまわりさんに、「で、あんた誰なの?」ときかれ、いろいろあって血まみれになった顔面でにやりと笑いながら、「みのもんたです。」と言ってるおじさんのアップ顔が頭に浮かんだ。最終ページを大小2コマとし、大きい方のコマを2コマ目に持ってきて、1コマ目で警察におじさんの方を向きながら質問をさせる。そして大きな2コマ目におじさんのアップ顔がきて終了である。今のところこれ以上ちょうどいいオチは思いつかなそうなのでここから3の部分を演繹する。

おじさんは最終ページで渋谷の交番にいるのでおそらく暴れたのは渋谷近郊である。そのきっかけはいくらか考えられるが、ここで押さえておきたいポイントはおじさんは日常的習慣的に渋谷に行っているということで、だからおじさんは渋谷でいくら若いひとにバカにされても、その程度で即ブチ切れるということはないだろうということ、バカにされる程度はしょっちゅう受けているだろう、ということである。何か先にきっかけになったものがあって、それが渋谷に来たことで爆発したと考えた方が流れとして自然である。こういう自然さも考えると話が浮かぶきっかけになるので詰まった時はそういうことを考えるようにしている。ここでイライラを抱えながら一人満員電車に揺られながら渋谷駅の出口を出るおじさんの姿が浮かぶ。おじさんは電車に乗る前からイライラを抱えていた。ではそれはいつからだろうか。

例えばここでおじさんの住んでいたアパートの立ち退き勧告が出ていた、みたいな設定をつけてもいいが、そんな長いページ数になるような話ではないので、倉庫と渋谷に続いて家までも場面として存在感を大きくしてしまうと全体のバランスが悪くなってしまう。なので立ち退き勧告というアイデアじたいはとても哀れで笑えるので採用するとして、それはイライラの加速度を上げたギアチェンジ的なもので、本当の最初の踏み込みはやはり倉庫バイトの中で起きた、ということにしてみたい。そのイライラをおじさんが一人延々増幅させ、それが渋谷で狂気となって大爆発したのである。ここでの狂気の爆発は、「いきなりおじさんがみのもんたが街ブラでロケをしているような口調で周囲のひとに話しかけたり、店に入って勝手にひとのものを食べたりした。」ということにしてみよう。そしてその口調がめちゃくちゃ似ていて、まわりのひとが「みのもんたが暴れてるぞ!!」とか騒いでいたらおもしろいだろう。それがおじさんの唯一のモノマネの発露であり同時に終わりの瞬間であった。その起爆はやはり夢を否定されたり、おじさんのダラダラとした日常を正面から否定する人間の登場、そしてその人間のド正論すぎておじさんごときではとても否定できないようなキラキラ感にあるのではないかと思う。ここでおじさんが倉庫の隅っこで、仕事のできなさを誰かに注意され、そうしてその過程で悩み相談的に自分の話を聞いてくれたその人に不意に持ち前の無防備さによって自分の思いの丈をさらけだしてしまった結果、それをあっさりと常識的に否定され、以来おじさんの脳みそでは彼の否定に対する反論が全く用意できず、同時に焼け付くような憎しみだけが募り、その結果心が爆発してしまう、というのはどうだろうか。そしてこの展開に持っていくには日ごろ何も仕事ができないと周知されているおじさんが、それでも注意の対象になってしまう程度に仕事ができなくなるもう一つのきっかけがいるだろう。それは些細なものでも構わないはずだし、おじさんは日ごろからずっと仕事ができないのだからちょっと余計に仕事ができなくなっただけでそれは十分に退場勧告に値するだろう。それはバイトリーダーとの失恋だろうか?いや、それよりも仕事ができないのろまなクズだと思っていた年下の顔のやつれたデブが、実はFxでバリバリ資産を動かす資本家(このへんはよくわからないので本編中でもふわっとさせておく)で、ただ一度失敗したためにたまたま資金集めでアルバイトをしていただけだった、というのを若いバイト仲間から聞く、というのはどうだろうか。ある日バイト先にそのデブが来なくなる。おじさんはどうせ仕事がいやになって逃げ出したのだろうと一人合点し、これだから仕事のできない軟弱者はだめなんだよ、という。吹聴してまわっていてもいいかもしれない。するとまたしばらくたった別のある日、おじさんは渋谷の書店でどうみても彼にしか見えない男が表紙にうつる『偉大なる復活劇』みたいなタイトルの投資のHow to本を見る。あるいは家で彼の出ているテレビ番組を見る。その翌朝おじさんが倉庫の食堂で一人ご飯を食べていると、後ろで仕事のできる若い学生アルバイターが尊敬の眼差しでデブのことをうわさしているのを聞く。「俺一度喫煙室で話したことあるけどあのひと実はすごいトレーダーで・・」そして話し終えた後、彼らが自分に一瞥を向けたことにおじさんは気がつく。そういえばあのジジイあの人のことかなり下に見てたよな・・俺たちもあの人のこと知らなかったから何も言わなかったけど、今となってはさぁ・・。おじさんはそこで茫然自失の状態になり、自分でも気がつかないままその時から確実におじさんの心のなかでこれまで人生の中で培ってきたみみっちいレガシーのようなものが崩れ去っていく。おじさんはもうそんな自分を修正することはできず、毎日をただ”不思議なイライラ”感、を湛えたまま生きていく。しかしその表面張力ギリギリまで水の張ったような状態はいつまでも続かず、ついには憧れのおばさんバイトリーダーにさえもおじさんは牙をむくようになる。倉庫の社員にも返事をせず、「はい」の代わりに口の中でモゴモゴと何かをいう。誰にも目を合わせない。仕事も雑になる。ついには社員のそこそこ偉い人(いつもおじさんに挨拶をしてくれた管理職の人)に面と向かって注意と説教をされるが、その際にやさしい口調で何か悩みはないのか聞かれ、自分の人生をポロポロ話すうちについみのもんたのことを言ってしまい、「君ぃ、それは無理だよ。」的なことを言われて完全に心にヒビが入る。
そしてそんなことがあった一週間が終わり最初の休日、おじさんはいつものように渋谷へ向かう電車の中でついに決壊する。電車のつり革にはフライデーの広告があって芸能ニュースが見出しで並んでいる。その中でみのもんたの名前を見つけるおじさん。その時おじさんは不意に自分がみのもんたでないことが猛烈に許せなくなり、思わず叫ぶ。「俺はみのもんたなんだ!思いっきりテレビなんだ!」。満員電車、隣の就活生とおぼしき女子大生は半分泣きそうな顔で携帯の画面を凝視してLINEを打っている。おじさんは一人自分のひざを見ながら、自分の”今、そうであってほしい自分の設定”みたいなことを延々言っている。「午後は◯◯・・」そして渋谷到着、エンディングに至る。

完成したストーリーライン:

1. 主人公、50歳一人暮らしの倉庫派遣バイター。かつて一度だけみのもんたに似てると言われたことがあり、それを生きがいに生きている。いつか誰かが自分をスカウトしてくれれば、モノマネタレントとして人生大逆転できるのに、と夢想して生きている。バイトでは仕事ができず一番仕事のできない人が行く場所で働いている。
2. 主人公は派遣会社の社長を憎んでおり、倉庫バイトの同僚のバイトリーダーの40代女性に淡い恋心を抱き、かつ彼女と一度会話しているのを目撃したことがある、顔のやつれたデブの40代男のことを憎んでいる。同僚のほとんどである大学生男子からは馬鹿にされることすらなく、人でないものとして距離を置かれている。
3. みじめなバイトの日々が続く。ある日下に見ていた40代でぶがバイトにこなくなる。次の日、渋谷でいつものようにスカウトを待っていると、おじさんはふとテレビに写るでぶの姿を見る。それはでぶがトレーダーとして再起したことを知らせるニュースだった。店頭にもでぶの顔が表紙の本が並ぶ。
4. 見下していたでぶが自分よりずっと高位の存在であることを知り、おじさんは徐々に仕事に身が入らなくなる。みかねた倉庫の社員がおじさんに説教をする。その真摯な言葉におじさんはつい、みのもんたのモノマネタレントになりたいと思って生きている、という本心を吐露する。社員は一言でそれを否定し、真面目に仕事しなさい的なことを言う。おじさん言葉を失い、心に亀裂が入る。
5. 次の週末、おじさんは電車で渋谷に向かう。車内は満員。いつの間にかずっとぶつぶつ独り言を言っていたおじさんに誰かが注意し、おじさんが爆発する。渋谷駅を降りてもおじさんの爆発は止まらず、おじさんはついに自分をみのもんたに扮して街ロケごっこを始めた。飲食店に入り、「お母さん!ラーメン!」と言ってラーメンを注文し、誰もいないテーブルの正面を向いて「おいしいねー」とか言うおじさん。そして金を払わずに店を出ようとして店主に引きとめられ、そこで「俺はみのもんただぞ!」といって暴れ出す。やがて出前から帰ってきたHIPHOP系の若者(店主の息子)にボコボコにされ警察に引き渡される。
6. 渋谷の駅前交番で事情を聞かれるおじさん。ところがもはや話しは通じず、呆れた警官に名前を聞かれたおじさんは、血まみれの顔で「みのもんたです。」と言い、にっこり笑う。

これでストーリーラインはとりあえず完成した。

あとは実際にネームを描いて様子を見るといったところだが、文章のはじめの方でも少し触れたように、実際の漫画作業としては消しゴムで1コマ消したり台詞を書き直したりして、これまで文章で長々と描いたことをほとんどネーム作業、としてやっている。どこまでアイデア出しをしてどこからネームを描いていくかはその時々だが、具体的にページ数がそんなにかさまないな、というアイデアや、少しネームを描いてみないと話しが見えてこないような話しは率先してネームから描き始める場合が多い。ある程度書き進め修正していくうちに見えてくる話もあるし、そういった単調な作業の繰り返しが自分にとってのネーム制作、ストーリー作りである。そしてある程度ネームが固まれば、最終的にそれを下書きの段階に持って行き、下書きでネームを全て原稿用紙に移した後で、細部のコマの大きさなどを整え最終確認をして、それでも問題がなさそうなら最終段階であるペン入れ作業に入る。

もっともこれはアナログ原稿で漫画を制作する場合に限ってのことで、デジタルで作業する場合はネームの段階でネームをそのまま下書きとして使用し、1コマだけを完成までペン入れするようなことが可能なので、あやふやな演出が決まらないところはとりあえず放置して他の部分を完成まで持って行き、その作業をしながらその部分のネームを考える、という場合もある。いずれにせよ自分にとってはネームを描く作業がまんがを描く作業のほとんどであり、そこでの労苦が終わればあとは全自動ペン入れ機と化すだけなので、アナログ原稿で言うところの下書き以降の工程(下書き・ペン入れ・ベタ・トーンなど)については特にこれといって書くべきことが見当たらない。ただ単純に単調に線を書き、それをなぞっていくだけである。また既にペン入れの技法などについては無数の解説書が出ており、ネットでも参照にできるWebサイトが非常に多いので、それを読んだ方が良いと思う。僕もペン入れやトーンなどでわからないことがあったらとりあえずググって、そこで出てくる方法をそのまま使うことが多い。

なおこれまで書いてきたストーリー制作法はページ数指定・ジャンル指定の全くない場合の方法で、例えばページ数が36pと限定されるのであれば、上の二択で演出・展開を決める場合によりページ数が少なくなるだろう方を選んだり、全部書いてから36pに収まるよう細部の演出を調整したりと、それはそれで様々な方法を使う。例えば1pごとに何がどこまで起きるかを順番に書いていき、それからそれをネーム(漫画のコマ割り)で書いてごちゃごちゃせずすっきりと表現できるか確認する、といった方法である。

いずれにせよまず第一に

1. ネームを作りながらでもなんでも真っ先にストーリーを完成させ、
2. あとはそれをうまく表現できるようコマ割などを調整したあとに、
3. 最後に下書き→ペン入れという仕上げの工程に入る

という点は変わりはない。

下書きとペン入れというのはあくまで版下作業であり、極論を言うと「”全部塗ったらマンガになるぬり絵”をぬる工程」みたいなものである。だからおおもとの「ぬり絵」の部分であるストーリー・ネームがつまらないと漫画もすべて退屈なものになってしまう。
圧倒的な画力の高さでそれをだまらせてしまうような漫画(女の子がかわいければいい、風景とか細部の描写まで細かく描き込んでるのがいい、とか)もあるが、僕は圧倒的に画力が低いのでそのような漫画を描くことができない。なので仕方なくこういった漫画の作り方で漫画を描いている。

実際賞を目指して漫画を描く場合は、こうして描き始める前に送りたい賞の応募要項を確認しておくことも非常に重要である。大抵の賞の応募要項はページ数や、「デジタルの場合はコピーを添付してCDーRで送ってください」といった指定があるのみで、およそ16p以上40p未満の漫画を描いていれば大抵の賞に見てもらえるとは思うが(※個人的な感想)、ごく稀に漫画のテーマを指定してくるものや、デジタルorアナログ原稿のどちらかが不可の賞もある。逆に既出の作品や出版したオリジナルの同人誌、pixivに投稿した作品でもURLだけで応募を受け付けるような賞もあるので、いろんな意味で漫画賞は常にチェックしておいて損はないものである。マンナビというサイトが様々な賞を期間を絞って検索することができるので非常にオススメである。

僕は「漫画家を目指して漫画を描く」という典型的な雑誌連載目指し人間なので、未だ何かアニメやゲームなどの同人誌を描いたことはなく、そちらのノウハウもないが、同人のストーリーの場合でもこれまで書いてきたネームの作り方を使って特に問題なくストーリーを作ることができると思う。例えば今流行りのけものフレンズで、サーバルちゃんとサーバルちゃんを狩りにきたスティーブン・セガールがリアル狩りごっこをする同人誌などは非常におもしろそうである。(でもないか・・・。)

漫画を描く過程を文章で伝えるのは非常に難しいことである。問題なのはネームを描くこともストーリーを描くことも、文章を書くことも絵を描くことも、漫画を描く、という行為の中では全部同時に起こってしまい、その中のどれか1つをとって定点観測するような書き方ができないからである。この文章は漫画を描くことを文章で伝えることを目指して書いたものだが、実際これまで文章で書いてきた「レイジ・みのもんた」はこのままプロットとして漫画に流用でき、ネームの元として使えるものである。だからこの文章を書く行為も、漫画という完成を目指すなら、漫画を描く、という工程の1つであったことになる。

この文章では漫画を描くこと=ネームを描くこととし、さらにネームを描くこと=ストーリーを描くこととして、自分がストーリーを作る流れとして文章を書いた。そのため制作の過程を文章で書くというよりは、その間の自分の思考の流れを文章にしたようなものになってしまって、実際のネームを描く作業の文章化からは少し外れている。僕自身は漫画を描く時、特にコマ割りに関して考えていることは、全体的なバランスよりも、次のシーンを描く際に、紙の上にはどれくらいスペースが残っているか、ということである。ストーリーを漫画のコマで表現するということは、ストーリーを各コマに配分して、いわば一度バラバラしたパズルを再び組み立てるか、あるいはケーキの上に少しずつクリームでデコレーションしていく工程に近い。つまり1コマ分ストーリーを紙の上に配置したら、その1枚の紙の上に配置できる残りのストーリーの面積は、実際の紙の残り面積に等しいものとなる。そして1コマ描くたびに減っていく原稿の残り面積と、次に絞りたいストーリーの面積を照らし合わせて全体のバランスが悪くならないように紙の上に次のストーリー分のコマを広げる、この連続が自分にとってのネーム作りである。

16pの漫画も32pの漫画も、32pで表現しているからその長さなだけであって、もともとは1枚の紙にすべてコマを並べることはできるのである。漫画を32pにしたり、1pのコマ数を数コマにしているのはそれを読む人間の見やすさ、という体感的な問題であり、この点が漫画と他の紙媒体メディアで違うのは、小説は初版の文字のフォントが小さくても改版の際にいくらでも文字を大きくして読みやすくすることができるが、漫画は初版の、最初の原稿にペン入れした際の、ネームに書いた際のコマの大きさが未来永劫残り続ける、ということである。だから漫画のコマ割りで自分が考えているのは単純に大きい方が見やすい、ということと一度描いてしまうと取り返しのつかないものだから気をつける、ということである。そうしてコマを各ページに見やすく配分した後、最後に全体のコマ割りやコマの大きさ、視線で追った際の流れのスムーズさなどを調節するようにしている。小説はページを1枚めくった時最初にくる文字が版ごとに変わっても大きな問題はないが、漫画はその部分にも配慮する必要が多分にあるからである。(漫画はその部分の配慮で魅せるヒョーゲンだとも言える。)

また漫画のキャラクター設定についてであるが、僕はこれまで文章で書いてきた通り、設定はニュアンスだけ決めて、あとはセリフとか全部考えた後に、「こんなこと言うやつはこんなルックス」と偏見で見た目を決めていくといった作り方をしている。また、普段からプロトタイプ的な、手塚治虫の漫画に何度も出てくる、出てくるたびに違った設定になっている同じ顔の登場人物(ロックとかヒゲオヤジとかなんとかランプとか)のような、俳優的なキャラクターを何人か用意して代用的に彼らを使ってネームを描いており、そうしてざっくりとネームを描いた後に、一人一人のキャラクターについて、そこで使ったプロトタイプ的なキャラを元にしてキャラクターを作っていく。上に書いたおじさん、にもプロトタイプ的なキャラはいるし、不良中学生とかバイトの大学生とかも同じようなキャラがいる。そしてそれをそのまま使っても問題なさそうならプロトタイプ的なキャラクターをそのまま本番(?)でも使うことが大半である。だから僕はあまりキャラクターの設定を0から、ストーリーを作る前の段階で作るといった漫画作りはあまりしたことがない。ファンタジー漫画など、マガジンなどの賞に送る時は一度ストーリーを作る前に設定を考えようとして作ってみたこともあったが、いずれにせよ先に人物ができるとストーリーの方がそれにつられて歪む気がして、あまりその方法はうまく使えたためしがない。だからその点についてはあまり参考にならない制作方法だと思う。ジョジョの荒木飛呂彦が1人のキャラクターについて1つ履歴書を作ると言っていたのを真似したこともあったが、こんなの考えても意味ないだろと思ってすぐやめてしまった。この世にいない人の人生なんてあってもなくても同じだと思う。

最後に自分の漫画作りの流れをざっくりとまとめてみる。

1. フレーズや発想などからストーリーラインを作っていく。
2. ネームを描きながら、あるいは文章で、その時その時の一番良いだろうという方法でストーリーラインをひたすら作る。(この時セリフも決める。)
3. ストーリーラインが決まり、セリフも要所要所のものが決まったら、一度ネームとして清書する。(あるいはここまで全部ネーム作業としてやる。)
4. 原稿用紙に下書き。ネームを1つ1つ確認しながら原稿用紙に移して描き、必要だったらその都度修正する。
5. ペン入れと仕上げ。いたって普通。ふきだしを描き、人物に線を入れ、手前のものから順番に線を入れていく。線を入れ終わればベタ、トーン。
6. なおデジタル作画の場合は4−6を同時に行うこともある。下書き・ネームなしでそのまま描くこともある。

自分にとってやはり漫画作りの山はネームの段階にある。それさえできればあとはすべて仕上げ作業のようなものである。なのでその過程ばかりに絞った独り言のような文章になってしまったが、それでも誰かの参考になればうれしいです。

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カッコいい印刷とは何かを考える

印刷にはカッコいいものと、ダサいものが存在しています。このように書いてしまうと語弊があるかもしれませんが、印刷にもしや何かがあるかもしれない、という信頼が無ければダサくなるのは当然の話しなのです。カッコいい印刷を考える時、単に特殊加工が優れているからと言って安易に手を出して、カッコイイ!と言ってしまっては、とてもダサいと思うのです。それは加工がカッコいいのであって、その印刷物に課せられたカッコいいでは決してありません。では印刷のカッコよさって、なんなのでしょうか。もしそれが、ある一定のカッコいいを維持出来ているのだとすれば、白い紙に黒いインキで刷るだけでカッコよくなるはずです。刷るにふさわしいものが作れているか、とか、その内容に合った文字組みが出来ているか、とか、それはキチンと勉強出来たものであるか、など、その完成度によって、まったくの同じ技法を使っていたとしても、印刷はカッコよくもなり、ダサくもなるのです。私たちはその準備をしなくてはなりません。自分たちが置かれている状況を判断し、必要な印刷とその技法を導きだすのです。もちろん、ファッションとして考えるのも良いかもしれません。加工がカッコいいから!は、もしかしたら、加工所の提案がしっかりしているからかもしれません。ならば、その結果としての印刷物も、それにふさわしい内容で、カッコよく作らなくてはバランスを崩し、どうしてもダサくなってしまうのです。こんな事を書いてしまうのは、加工所にとってマイナスになる事はとても分かっているのですが、必要のない技術は消えます。だからこそ、印刷を愛する私たちは印刷というものをカッコよく仕上げなくてはならないのです。消えてしまうかもしれない技術に対して、準備して、どのような印刷という策定を持ちうるか考慮しなければなりません。それは、同時に印刷への育みとなります。ある一定のシーンでの印刷を考えた時、一定の策定では加工を変えただけで、その加工の変化に必要性がありません。そうではなく、何を用意しなければならないか、カッコいい印刷を考える時、もしくは、印刷がカッコいい時、そのシーンの中での育みが、印刷とともにある事を願っています。

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ボードゲーム論考

ボードゲームが流行っている、そんな噂を聞いたのは数年前参加したコミティアで、同日開催されていたゲームマーケットというイベントを知ったことがきっかけだった。

最後に買ったハードがPS2で生涯一番遊んだゲームがスーファミのマリオという僕のようなあまりゲームに縁のない人間にとっては、ゲームマーケットというのはセガとか任天堂とかいった有名なゲーム会社が新作の発表をして、その度会場がワーッと盛り上がるような、そういう外人4コマの元ネタのような世界が広がっている場所だと思っていた。

しかし実はゲームマーケットにはTVゲームやアーケードゲームの筐体のような電源必須のゲームは一切出展されておらず、完全に電源不要のアナログゲームだけを扱ったイベントになっているということを知り、僕の中で一気にイベントへの関心と、そもそもアナログゲームでイベントってどういうことだ?という疑問が膨らんだ。コミティアの会場は例年コミケと同じ東京ビックサイト、ゲームマーケットもその中でいくつかのホールを貸し切って開催されている。つまりそれだけの規模の需要が今この日本にあるということである。それは一体どういうことなのだろうか?僕にとってそれはあまりにも意外すぎる現実だった。

一般に日本人の日常におけるボードゲームとはどんな存在か、またはどんな存在だったか。日本のボードゲームシーンについて思うことを書いていく前に、まずはシーンの外側から見たボードゲームについて、僕個人の、ボードゲームに対して愛着を抱いているわけでも嫌悪感を抱いているわけでもない、ごくごく普通の当たり障りのない付き合いをしてきた人間の回想として、少しだけ簡潔に振り返っていきたい。

ボードゲームといういう言葉を聞いて、僕がまずパッと頭に思い浮かべるのは「人生ゲーム」や「すごろく」といったサイコロを使うゲームだが、実は将棋やオセロ、チェスといったゲームも定義によればボードゲームに含まれているらしい。何か盤のようなものがあって、その上でゲームが展開されるものであれば何でもボードゲームと呼んでいいようだ。
また、記憶を遡ってみるに、将棋やオセロ、人生ゲームやすごろくをそれぞれ「それ」、としてプレイしたことはあっても、それらを「ボードゲーム」として意識して見たことはなかった気がする。どれもルーツがバラバラだし、ルールもそれぞれ別にあるし、そしてどれも混ぜて遊べないくらい確固たる個性と完成度を持っている。
だからそれらは自分にとって完全に別の「ゲーム」であり、すごろくや人生ゲームと一緒くたに意識することはまずなかった。何か統合的な括りがあったとするなら、「ボードゲーム
」というよりは、それらをトランプやUNOなどのカードゲームと全部一緒にして(「TVゲーム」に対する)「アナログゲーム」として認識していたような気がする。

「アナログゲーム」はスーパーファミコンであったり、プレイステーションであったりの新作ソフトが常に発表され続け、そのどれもがすばらしくおもしろく、同時にポケットモンスターなどソフト単位での大ヒットの渦中にもいた小学生当時の僕(平成生まれ)にとっては圧倒的にださい遊びであり、おそらく僕の周りの友達にとっても、常にテレビゲームの下位互換のさらに下位互換のような存在だった(下位互換はたまごっちなどのそれでしか遊べない携帯ゲーム)。友達の家に行ってアナログゲームで遊んだ記憶はないし、そんなゲームで遊ぼうと誘ってくるクラスメートには何か家庭の問題があるんじゃないかと不安になった。それならむしろ鬼ごっことかの方が楽しかったしずっとダサくなかった。まだ自分の家にテレビゲームがなかった頃、それだけで自分には友達を家に呼ぶ理由がないと思ったのを覚えている。だから将棋やオセロも何もかも、テレビゲーム以外のゲームは恥ずかしいものとして大人以外とはあまり遊ばないのが普通だった。アナログゲームはテレビゲームを知らない人と遊ぶ時のゲーム、テレビゲームがないとき代わりに遊ぶ無人島のサバイバル術みたいな消極的な遊びという感じだったと思う。町内会のビンゴ大会が関の山といった感じだ。けれども世代的にアナログゲームと無縁だったかというとむしろそうではなく、例えば『遊戯王』のような爆発的にヒットしたカードゲームがいつもそばにあった。

『遊戯王』は今でこそカードゲームが有名だが、元はジャンプで連載されていた漫画作品で、連載当初は世界のさまざまなおもちゃやボードゲームを、主人公がそれを使って敵とバトルするいう形で紹介していくという少しトリッキーな漫画として始まった。だから紹介されるホビーとしてガレージキットなど『遊戯王』を通して知った世界もあるし、海の向こうに様々なゲームがあること、TRPGなどの存在もこの漫画を通して知った。そしてそんな漫画作品の途中から本編に登場し、そのままカードゲーム化されたのが『遊戯王 デュエルモンスターズ』で、これは当初カードダス形式で販売されていたが、ブースターパックが販売された途端爆発的に流行した。レアなカードには1枚3000円近い値段がつけられ、それを買い求めて大勢の子供が生まれて初めて近所のおもちゃ屋、ホビーショップに足を運んだ。そこには子供達が遊戯王カードの入ったファイルに夢中になる中、ガラスケースの向こうには多くの海外のボードゲームが整然と並んでいた。
僕の場合それが海外のボードゲームの実物を見た初めてだったと思う。店にはそういったゲームのプレイ用テーブルも併設されていたが、大抵遊戯王ブームにわく子供達に占領されており、逆に普段のこの店の利用客層であろうおじさんたちの居場所がなかった。店内は常に子供の声で騒がしく、時々なんだか年季の入った感じの常連っぽいおじさんがデカい箱を介して店長と熱いトークを繰り広げている場面に出くわしたりする以外はそういうものに対する「ちゃんと買う人がいる」場面も見たことがなかった。ケースの向こうのゲームはいつも日に焼けており、結局一度もそれが開かれるところを見たことはなかった。そしてそんなゲームの正体に触れることのないまま、いつしか店は潰れ、気がつけばブームも終わり、そういったカードゲームが流行し続けていることを知りつつも、もう自分ではやろうと思うこともなくぼんやりと距離を置く日々が続いていった。
しかし思えばその時の経験、遊戯王というカードゲームの流行を通じて様々なアナログゲームの存在やその世界の入り口を経験した人は無数にいるのではないかと思う。

だからゲームマーケットがアナログゲームのイベントであると知った時、僕の脳裏に真っ先に浮かんだのは遊戯王やそれ以降雨後の筍のように大量発生した同系のカードゲームのことだった。それだけならある種簡単に納得できる現象だった。なのでそこで「ボードゲームが流行している」という話を聞いた時、僕は衝撃というより純粋な無知から来る疑問でいっぱいになった。上でも書いたようにその時点で自分が知っていたボードゲームと言えばすごろくや人生ゲーム止まりで、どれも桃太郎電鉄みたいにテレビゲームでやった方がおもしろい、むしろそういうゲームに基盤を提供するためだけに存在しているような、そんなどうしようもないゲームばかりだった。打ち棄てられた歴史の遺物、それだけがボードゲームという言葉のイメージを形成していた。だからそれが”流行る”とはどういうことなのか、その皆目見当の付かない感じにかえって引き込まれていく自分がいた。ボードゲームはそれくらい自分にとって異文化だった。

ここまで書いたことをまとめると、ボードゲームとはごくごく普通の(少なくとも本人はそう思う)幼少期を過ごした人間にとって、遊戯王のようなメジャー、けれどもぼくらの世代の間だけで流行していたようなカードゲーム以上に、フツーに生きているだけではまず目にすることも触れることもない娯楽だった、いうことだ。自分の経験を簡単に一般化するのはあまりよくないことだと思うし、記憶以外のどこにも根拠のない話ではあるが、友達が皆64やゲームボーイカラーを持っていたあの時期、それらの友達が、いやその中の誰か一人だけでも、『カルカソンヌ』や『カタン』をこっそり持っていたとはとても考えられない。小学生の流行の最先端であるコロコロコミックにもアナログゲームの特集が載っていた記憶はないから、当時全国的に見ても小学生の間でアナログのボードゲームが浸透していたということはなかったように思う。ボードゲームはあっても高いし、まず現物を置いている実店舗がカードゲームより圧倒的に少ない。そしてそういうお店に足を運ぶ人はあまたの趣味の中でもごく一部の大人達だけで、最初から圧倒的にハードルが高いというイメージが常にあった。漫画『遊戯王』のTRPG編のような、金持ちの子供が稀に持っていたりする金の張る遊び、そんなイメージが実際にボードゲームをプレイしてみるまで付きまとっていた。

僕が実際にボードゲームをプレイしたのはつい最近のことで、遊んだ種類もあまり多くないが、今この文章を書くにあたってAmazonでざっとプレイしたタイトルを調べてみたところ、レビューの多くついている、人気の高い定番的なゲームはある程度遊べているということがわかった。まだ自分でゲームを買ったことはないし、人に誘われた時だけプレイするという感じで、専門店やイベントに自分から足を運んだこともないが、家にテレビゲームのない、友達の家に遊びに行った時しかPSで遊べない子供のような視点から実際のゲームプレイを通じてボードゲームという文化に触れた感想を書いていきたいと思う。

ぼくが最初に大きな衝撃を受けたボードゲームは『プエルトリコ』という作品で、このゲームは港を舞台に、よその植民地と交易を重ねながら一番資本を獲得できた人が勝ち、というゲームである。この簡単な説明だけで、「え?アナログゲームだよね?」と思ってしまう人もいるかもしれないが、ゲームはずっしりとした重量の箱に入った各自それぞれ固有のボードと数種類のコマ、カードを使って約90分から120分ほどの時間をかけてプレイする。まるでプレステのシュミレーションゲームをそのままテレビの世界から引きずりだしてきたような、それでいて生身の人間の思考が激突することによりテレビゲームでは考えられないほどの奥行きと先の読めなさで展開していく重厚な戦略ゲームで、プレイした後は異常な疲労感に苛まれるほどである。僕はこのゲーム以前にも数種類のボードゲームをプレイしていたが、それでもこの時感じた、アナログゲームの持つ圧倒的なポテンシャルの衝撃には未だそれを超える感動を味わえていないままである。アナログゲームのイベントが東京ビックサイトで開催される理由や、ボードゲームが流行っている理由も、言葉ではなくそのプレイ1回で理解できたほど、『プエルトリコ』というゲームは圧倒的だった。これくらいおもしろければ流行って当たり前、一言で言ってしまえばそれくらい大きな高揚感を、アナログゲームという文化に対してその時感じた。

それ以外のゲームについてもおもしろいものはたくさんあり、種類がありすぎてとても1つ1つ紹介していけないのだが、全体的なざっくりとした印象として、「これは金脈だな。」と感じた。ロックを知らない人が初めてApple Musicでロックの名盤を1枚聴き、その後そんなアルバムがまだ1000枚も2000枚も眠っていることを知って味わう、その世界にどハマりしていくことへのちょっとした恐怖と、こんなの知ってしまっていいの?という何だか誰かに申し訳ないような喜びのないまぜになった感情である。
日本ではボードゲームという文化自体がまだ手付かずの荒地だが、海外ではもう既に素晴らしくハイレベルの作品が出尽くしたと言っていいほど出版されており、そしてそんな宝の山の一部が少しずつ日本にも翻訳されて入荷されてくるという安定した環境。アマゾンを使えば翻訳されていないゲームだって手に入れることができるし、あとはプレイする時間さえ作れば遊び放題の無限大の世界が広がっている。『プエルトリコ』のようなゲームだって何十種類と出ているのである。一度知れば10年は遊べる世界。アナログゲームは常にテレビゲームの下で、そしてテレビゲームは常にアナログゲームの上だという、自分のゲームに対する浅はかな理解も、複数のゲームをプレイしていくうちにたちまち修正されていった。またおもしろいと紹介された日本のゲームがどれも、海外のゲームに負けず劣らずおもしろい作品ばかりだったという点も嬉しい驚きだった。

結論として実際にアナログゲームをプレイしてみてわかったことは、アナログゲームというのは外面は非常にとっつきにくい文化ではあるが、いざ体験してみると抜群に面白く、ゲームマーケットの規模のイベントが開催されることも一瞬で納得できるほどの世界であること、また日本においても既に紹介や啓蒙の段階を超え、国産オリジナルのハイクオリティなゲームが生まれ、それが他の海外産のゲームと混ざって浸透していくほどカルチャーとして成熟していた、ということである。ゲームマーケットはそんな日本のボードゲームカルチャーの今を、目に見える形で具現化した場所なのかもしれない。

非常に前置きが長くなってしまったが、これから日本のボードゲームシーンについていくつか思うことを書いていきたい。

「日本のボードゲームシーン」と書いたが、まず冒頭のアナログゲーム専門のイベントであるゲームマーケットについて個人的に感じているのは、上でも少し触れたように、やはり(アナログゲームをボードゲームとカードゲームという2種類のゲームの市場とした場合)どちらかというとカードゲーム主体のイベントなのではないかということである。

海外の事情は知らないが、体感として日本は非常にボードゲームを入手することが難しい国であると思う。カードゲームはブシロードなどオタクカルチャーを飲み込んだ企業が大きく成長を遂げることに成功したが、ボードゲームではまだそれができていない。入手が難しいというのも別段規制などがされているわけではないのだが、シンプルに買える店がまだまだ少ない、ということだ。そしていつも行くような店にはまず絶対に並んでいない。

またカードゲームとのストレートな相違として、カードゲームは書店でも販売しているが、ボードゲームはおもちゃ屋などにしか置いていない、という点も挙げられる。それも小さなチェーン店などではまずお目にかからない。カードゲームも書店で販売されているとはいえ、扱われているのは基本的にオタクっぽい絵が描いてある萌え系のカードゲームとか、コレクター向けのスポーツカード、遊戯王系の漫画とタイアップしたようなカードゲームが主流で、『ハゲタカのえじき』などが買えないという点ではボードゲームと扱いが同じなのだが、それでも買える場所の有無という点には大きな違いがあると思う。1種類でも手に入るのとどんな種類も手に入らないのでは雲泥の差がある。ボードゲームはコンビニにも置いていないし、あったとしてもマグネットの将棋盤かオセロくらいである。

そもそも日本人に大人が洋物のボードゲームで遊ぶ習慣があるかも謎で、バブル期の日本人すらそんなことはしていなかったように思う。おじさんは麻雀か将棋、いっても花札かトランプが関の山ではないだろうか?(もうこの時点でボードゲームではなくなっているが)パチンコや競馬に比べるとボードゲームは少しお上品すぎるし、ルールを覚えるのにもある程度の知性がいる。特に海外のゲームだと、年齢制限が何歳以上が遊べて、そもそも何歳くらいまで遊ぶものなのかもよくわからない。すごろくや人生ゲームといったいって中学生くらいまでが遊ぶゲームを基準に考えるなら、シンプルに言って市民権がないと言っていいだろう。
あくまで鉄道やプラモデルと一緒の一部の、線を引かれた向こうの世界の人々だけに熱烈に愛されている趣味の1つであることは僕の小学校時代、2000年代初頭から根本的には変化しておらず、その中で線の内側の人数が増えることはあれ、未だ文化そのものはそのラインを超えていないのが実情ではないだろうか。

しかし一方でボードゲームを買うには至らないまでも、ボードゲームをプレイすること自体や、そういったことができる場所などは増えている、という現象も起きているらしい。ボードゲームバーやボードゲームカフェがそれで、ネットで調べてと「ボードゲームは婚活にイイ!」みたいな記事まで出てくる。思えば『人狼』なんかも分類すればボードゲームに入るようだし、手軽にそういったゲームを楽しむ面白さ自体は徐々に人口に膾炙していっているのかもしれない。

けれども買うこと、所有することとただ遊ぶこととの間には大きな隔たりがある。面白い遊びであればなんでもいいという人々にとっては「ボードゲーム」という字面がもう別世界という感じだし、入りづらい専門店に行っておもしろいかどうかわからない高いゲームを買ったり、アマゾンで手に触れてみることもできないゲームにいきなり数千円はたいたりするよりは、そういう場所で気楽にいろんなゲームではしゃげる方がずっと気軽で楽しいのだと思う。

そしてこういったカフェやバーなどの場所は一般的なゲームショップのプレイスペースや専門店にたむろしているコア目なシン・ガチ勢の人からいい感じに距離を置けるというのも利点だろう。浅く広く楽しみたい人間にとって、その世界にズブズブにハマらないと楽しめないというのは案外退屈なものだし、軽く遊びたい時ほど、素潜りとマリアナ海溝の深海調査を一緒くたにした人のガチトークに付き合わされるのはしんどいものである。そんな人でも場所がカフェやバーとなればそれなりに空気を読んでくれそうな気もする。重厚なファンの方の重厚なウンチクを聞きながら超本格的にプレイするボードゲームもそれはそれで悪くないものだと思うが(そこまで濃いのは未経験)、そんな一子相伝感ばかりだと気が詰まる人も多いはずだ。

ということはもしこのままうまくボードゲームがライト層に浸透していった場合、ガチ勢から分離したボードゲーム(アナログゲーム)が、最終的にカラオケやラウンドワン的なカルチャーの一部として取り込まれていく可能性は十分に考えられる。カラオケやボーリング場にボードゲームのプレイスペースや貸出サービスが出来(もうありそう…)、ボーリング好きが自宅にレーンを作ろうと思わないように、それくらいのほどよい距離感のレジャーとして浸透していくのではないだろうか。ガチ勢についてはこれからもつつがなく己の道を突き進み、そこに障害物も今のところないと思われるが、メジャー的な広がりについてはまだまだこれからもたくさんの変化が起きていくのではないかと思っている。

では同人はどうだろうか。率直な印象として、今同人のアナログゲーム界とメジャーのアナログゲーム界の間に根本的な差はないように思う。生産力や信頼度、知名度や販売力などでは企業の方が上かもしれないが、そもそもそこまで大量に生産して売りさばけるようなゲームは存在していないし、そんな大きなものが乱立できるような市場でもないと思う。ゲームとしての面白さや、個々のサークルのブランド力、それからゲームマーケット含む各イベントのイベントとしての規模を考えた時に、まだ同人サークルに対して確固たる王者として君臨できるほどの企業は存在していないのではないかと思う。君主はいるが田舎の城下町というか、共存共栄という言葉の方がしっくりくるような環境なのではないだろうか。
しかしそんな環境でも、やはり名も無き同人サークルが有名企業と同じ種類の商品を出して売れようと競い合うのであれば、やはり分は企業にあるかもしれない。そしてそんな企業に対し、正攻法で勝ちに行こうとするあまり、結果企業と同じ選択肢を選び、デザインやパッケージの力で最終的に負けてしまっている同人サークルは多いような気はする。というのは、いくつか遊んだ同人のアナログゲームにおおまかな共通項が見られたからである。

現状同人アナログゲームでお金を稼ごうとした場合、いくつかのネックが考えられる。界隈の規模(=イベント数の少なさ、etc)もその1つと言っていいだろう。もちろんこれはあくまでアナログゲームを中心にしたイベントに限っての話だが、日本各地のイベント開催概要を調べた結果、ファミリー向けのゲームイベントなどは各地で開催されているものの、いずれもアナログゲームの啓蒙を目的にしたゲームを無料or安値で遊べることを謳う体験系のイベントであったり、他のイベントに付随したフリマが主で、他には「ゲームマーケットに落選したサークルが集まるイベント」がある程度で、独立した同人ゲームの販売イベントという点に限って言えばゲームマーケットが統合的でありほぼ一強と言って良い状況である。

だから商品的な質の差に決定的なものがあったとしても、状況的にはやってくるお客さんにただ売る!売りまくる!という点でサークルも企業も同じマウンドに立たされていることになるから、大げさな例えだが、ジャンプコミックがコミケで新刊を売るような事態がゲームマーケットでは起きているのかもしれない。実際1万人近い、完全に自分たちのお客だけで埋め尽くされた人々が一堂に会する機会は、企業側にとってもまだまだ捨てがたい全力を捧げ得る非常に貴重な機会だと思われる。

こうして資本のある企業とそれに乏しい同人サークルが同じマウンド上で争うことを余儀なくされる影響は実際の同人アナログゲームを手に取ってみると手に取るように感じることができる。『ゴリティア』など、同人でもオインクゲームといった有名ゲームメーカーの作品と比べてみても遜色のない作品は多く存在するが、しかしそのどれもが基本的にパッケージ偏重な、いかに目に触れたお客さんにパッと手に取ってもらえるか、を第一にした作りになっているのである。実際プレイしておもしろいゲームもあるが、商売的に手にとらせれば勝ちで、ただそれだけの目的だけで作られたようなゲーム(パッケージ)も多数あるように思える。お化粧といえば聞こえがいいが、美人だけど誰こいつ?みたいな、そんな美人ばかり並んでいる印象も否めない。

アナログゲームは買い手にも予算を要求される。大型の箱ゲーは10000円を超えるものもあるし、5000円やカードゲームでも2500円といった値段が平均的である。だからコミティアのコピー誌100円カラー本500円総集編1000円といった世界とは何もかも規模が違う。だからそんなカルチャーの中で、いかにその限られた予算をこちらに向けさせるかの努力が必要なことは疑問を挟む余地がないが、それが結果的に厚化粧的なパッケージ偏重という形で現れ、全体的な印象が「B級」止まりになっているのであればあまり良いこととは言えない気がする。
もちろんおもしろいパッケージのゲームにもコレクション的な楽しみがあることは否定できず、個人的にはどうせ年に数回遊ぶか遊ばないか程度のゲームなら、ネタ的に飾ってておもしろいやつの方がいいか、という心情は大いに理解できるが、やはりゲームである以上、ガワはいいけど中身はテキトーというゲームばかり増え続けることには一抹の不安を感じざるを得ない。

しかし中身の作り込みという話になると、今度はここにも金額的なネックという問題が存在する。壮大で長く遊べる重厚なボードゲームを作るとなると、コマやボードなど様々なものの制作にコストがかかり、結果的に数千円を超える値段にならざるを得ない。『プエルトリコ』や『カヴェルナ』などは物質としての重量も尋常ではない。10000円するようなボードゲームは箱を持った時点で「ああ、これはそれくらいするわ。」と納得できるくらいの物質感を持っているものである。そういうゲームは確かに素晴らしいかもしれないが、そうなった場合客はもちろん買うことに慎重になるし、製作者側も制作には慎重にならざるを得ないだろう。少なくとも1回のゲームマーケットの開催の間隔で作れるようなゲームではない。
つまり漫画であればページ数に制約がかけられることはあっても内容に予算的な制約がかかることはないが、ゲームは予算の段階である程度ジャンルがカテゴライズされてしまうという問題がある。かといって低コストに抑えれば良いというわけでもなく、いずれにせよかけられるコストが作るゲームの内容を規定してしまうことに変わりはない。そこが同人ゲーム制作の難しいところで、ある程度の予算しか準備できないサークルの出すゲームが似通ったジャンルに偏るといった事態が起きやすいのも必然ではないかと思う。上に書いたパッケージ偏重のゲームの頻出というのもつまるところこういうところに原因を求められるのかもしれない。

もちろんそれはゲームそのもののおもしろさとは関係ない部分ではあるが、しかしかといって普通紙にコピーしたものをジップロックで閉じたようなカードゲームを販売して売れるわけがない。最低限のTPOはやはり存在する。

もっともそう考えると単純に必要な予算が他に比べ高いだけの同人活動と割り切ることもできそうだが、それでも同人活動であるならばその中で同人活動でゲームを作る意義というか、企業的なゲームとは違う、同人ならではの持ち味のようなものが「ふざける」という方向以外からも出てきていいのではないか。

パッケージがおもしろいだけで中身のつまらないゲームがたまたま企業側の中身がめちゃくちゃおもしろくてパッケージの良くないゲームより売れたところでそれはそれ以上の現象を意味しない。パッケージのおもしろさは人気を作れるかもしれないが、ジャケ買いされたところで中身のない音楽はそのうち忘れられていくものである。しかもその原因がサークルの能力の低さというよりは、企業の同系ゲームに競り勝つための策、というようなところから始まっているのなら、一層解決が望まれる問題である。

ではいっそ自分たちだけでゲームを作ることに固執するのをやめればどうだろうか?
例えばあるサークルはトークンやコマだけを作り、あるサークルはルールを値段をつけて売り、といったように、もっと同人ゲーム製作者にとっての築地市場のようなスペースが増えてくれば状況は変わる気がする。
これから書くことはすべて机上の空論だが、例えばどこかのサークルがコマを販売してくれるなら、こちらはルールを書いた本を出版すればコマを買うだけで事足りるし、買い手としてもまずルールを買って、そのルールで必要そうなコマだけを選んで買えば良いだけになる。そうすればゴツゴツしたパッケージもいらないし、そこに金銭的な自由が生まれる。プラモデルのフレームを1フレームずつ売るようにいろんなサークルがそれぞれゲームの要素を販売し、来場者がそれを買うことで最終的に何かしらのゲームがプレイできるようになる(完成する)ようなことができればそれは非常に面白いのではないかと思う。
それは間違い無くコマやカードといったそれぞれ物質的に独立した要素をルールという制約の下に紐付け、意味付けるアナログゲームという世界ならではのものだと思うし、何から何まで1つのサークルでやるのではなく、そういった様々な要素に分散させるということになれば、各サークルは自分の得意な事だけをやれば良いわけだから、シーンへの新規参入も容易になるのではないだろうか。

現在既にパッケージや企画などではサークルの枠を超えた交流が始まっており、さながら合同誌のような形で完成されたゲームもあるようだが、この流れがより加速することによって、ゲームマーケット、あるいは同人アナログゲームシーン全体がおもしろいゲームがより自由に生まれ得る環境に成るのではないだろうか?

また同様の取り組みとして、ゲームマーケット的なものを目指した同人ゲーム作りから離れ、例えば考えたルールをネットでただ提示していくような取り組みも、今後のシーンの盛り上がりのことを考えると必要になってくるのではないかと思う。ルールさえあれば身近なすでに買って持っているゲームのコマを使って新しいゲームで遊ぶことができるし、そういった刺激は常にシーンにあたえられるべきである。
新しいゲームに出会える場所が年に数回しか開催されないイベントの中だけというのはあまりおもしろいとは言えない。オリジナルのゲームのルールやアイデアだけを誰かがネットで延々と提示し、それを見ておもしろそうだと感じた誰かがそれをパッとアナログゲームの形に組み発表・販売できるような仕組みが生まれれば、さらに日本のアナログゲームシーンをおもしろく、活気あるものにできるにちがいない。

個人的にゲームとは遊び方であり、コマやボードは遊び方についてくるものだと思う。だからそっちがメインになってはいけないのではないか。”顧客が本当に必要だったもの”は「誰もがプレイしたことのないめちゃくちゃおもしろくて大興奮できるゲーム」のパッケージではなく、単なる「新しい遊び方」だけなのではないか?という気がする。企業はゲームを作らなくてはならないから新作を出し続けるしかないが、同人サークルならそんなことしなくても良いはずである。

コミティアに参加しなくても同人活動ができるように、直接的ではなくてもシーンに貢献できるなら、その方法はもっとたくさんあるはずであるし、そういった手軽にできる活動が増えた方がシーンはおもしろくなると思う。
いつかコミティアに参加するような軽いノリで、ゲームマーケットに参加したいと思っている。

文章 PRINTPUB02会員NO.00002:NR 青のりしめじ http://aonorishimeji.com
編集 PRINTPUB02会員NO.00000:fengfeeldesign http://www.fengfeeldesign.org

PRINT PUB 02では会員になっていただける方を募集しています詳しくはこちら→ http://www.fengfeeldesign.org/print_pub/?p=166

印刷物を使ったコミュニティ

月刊タニシの事を、もう少し書きたいと思います。

前回の記事→ http://www.fengfeeldesign.org/print_pub/?p=219

もともとは編集長であるミワくん( http://miwakazuki.jp )にイタズラを仕掛ける事が目的でした。
そのニヤニヤ感に味をしめたのがミワくんの中学時代の同級生のヤスくんなんだけど、
なんかそれが面白くって続けてる感じです。
多分、一番の軸というか、
それさえ維持出来ればどのような状況でも良くって、
いっそ雑誌じゃなくていいくらいなのですが、
なんとも良い感じに型にハマったのが雑誌という形容でした。

雑誌を皆んなで作るワークフローなどの組み立てについては、
fengfeeldesign( http://www.fengfeeldesign.org )も凄く勉強になったし、
自分たちの言ったアイデアが形となって現れる感動を、
ミワくんもヤスくんも存分に味わったんじゃないかなあ。
青のりくん( http://www.aonorishimeji.com )も漫画とか文章のフィクションの組み立ての良い訓練になったんじゃないかな。
編集長のアイデアの組み方とかかなり神がかっているし、
そういう部分で、得るものがたくさんあったと思います。

月タニがピークだった時、
それはもう、お祭り状態でした。
雑誌を作る会議ももちろんあるんだけど、
それがきっかけで、
なんかしらん、毎週のようにミワくん、ヤスくんの同級の人達が遊びに来て、
魚やら、ハンバーグやら、全国各地の食材が届いたりなど、
それはもう宴会の日々が続きましたとさ。
そんな、色々と賑やかな状況を作るフォーマットにもなっていたような気がします。
最終的には兵庫の家島まで話は流れに流れて…
それが5年くらい続いたのかな、
今は、良い感じに落ち着きを取り戻し、
初期の自分たちが楽しむっていうスタンスに回帰してる訳ですが、
プリパブ01の盛り上げフォーマットも、
実は月刊タニシで培ったものを利用していたりします。

ある時にこういった状態を面白く言い表せた事があって、
まあ、今は凄く落ち着いた状態だと言えるんですが、
なんかこう「良い最上の遊び」をしているよねっていうのがあって、
これって多分、誰よりも体感していた皆んなが思っていた事なんじゃないかなあ。
ずっとやれって言われたら飽きるだろうし、やんないだろうけど、
それでもコミュニティ構築として「月刊タニシ」を捉えた時に、
誰でも寄ってくるという状況は最強だなあと思います。
なんか分からん寄ってくる、
え?なにそれ?ってなる、モックとしての実物がある、見れば、みんな仲間!みたいな。

なんかこう、趣味だとか、考え方などで人を分けたりするじゃないすか。
阪口はそういうのあんま好きじゃないんすよね。
内容が無いのに、なんか楽しくて、誰でも話に入れてちょっかいが出せる感じ。
理想の狂いでもなくて、なんでもよくって、とりあえず形になれば面白いみたいな。
阪口が何かを仕組む時はそういうようにする場合が多いんだけど、
まさに!「月刊タニシ」は、それらを言い表すのにピッタリであったし、
コミュニティとして本当に嬉しいものなんじゃないかなって思っています。
fengfeldesignが月刊タニシでやった事は、
「バカな事を自由に言っていい」し、
それが「実行力、実現力として」形になるという事を「肯定化」し、
しっかりと何が結果かという事を全員で受け止める事の出来るフォーマット作りです。
それを印刷物の策定として捉え「月刊タニシ」を作りました。

いつものオチですが
そしてそれが、
策定された印刷物と言っていいし、
凄く、印刷物な気がします。
印刷物だからこそ「おバカ」な「自由」もちゃんと面白く見れたでしょ?

フライヤーを作る

フライヤーもなかなか、印刷物としてはたくさんの種類がある分野じゃないっすかね。
fengfeeldeisgn( http://www.fengfeeldesign.org )の一番最初のメインの仕事はフライヤー作りでした。
なんか、印刷所の場所とか、
ISDNはじめちゃんなネットで調べて、
同人界隈のBBSに頼ったりなどして探したりしていたなー。
紙はコート紙しか選択肢が無い!とか、いやあ懐かしい。

そういうフライヤーを、
最近また、
STEEL DROPS( http://www.steeldrops.org )と関わる事で作る機会を得るタイミングが多くなりました。
まさか、また作る事になるとは!というのが正直なところだったのですが、
これがまた今の技術で真剣に作ってみたら面白いのなんのって、
当時の初心に戻る感じがしてワクワクしながら、
STEEL DROPSのフライヤーに関しては作ってますかね。

STEEL DROPSのフライヤーはこちら→
http://fengfeeldesignprinthistory.tumblr.com/post/151284450075/steel-drops-flyer-ver201610-direction-and-design

なんといっても、
カッコイイ!と手にとってくれる率がめちゃ上がる!
それがいいじゃないすか、
置くとしたら、デザフェス、クリマ、スチームパンク系のイベントなどなど、
自分で言うのもなんですけど、
オレがデザインしてもうたらチートやないですか!ばりに目立ちまくっているみたいです。

チラシとかと違って、
フライヤー!って、とりあえずなんかカッコイイ!でオッケー!みたいなノリだし、
やけに手の込んだものとかを見かけるとやたらに嬉しいし、
そういう雑多としたグラフィック1つ1つが街を作ると思うので、
ダサいフライヤーはマジないわーって感じですよね。
フライヤーこそカッコヨクあらねば!

いやはや、
勢いで書いてしまいましたが、
今回は、この「カッコイイ!」印刷物であるフライヤーという観点が、
かなり大切だなあって思うのですね。
格好が良いわけです。
格好が付くでもいいですし、
つまり格好な訳です。
印刷を策定したりする時に、
格好が付かないものってやっぱ意味が無いと思うんですよね。
体裁が保てて、品位が守れるものってのは、
そういった、格好の良い印刷物と相場は決まっているのです。

めちゃくちゃ面白いイベントが、めちゃくちゃダサイフライヤーとかは逆にカッコイイ場合もあるけど(笑
これないわー、じゃ、話にならない訳ですね。
ああ、すげえ!って思わせたら勝ち!みたいなとこあるじゃないすか。
どんなにカッコヨクても、あとで捨てられる確率はかなり高めだけども!
そういうのも無駄にお金を掛けてみても、それはそれで勝ち組っぽくて面白いし!

カッコイイ!フライヤーを作る事、
これだけでも十分に印刷の策定が出来ていると思います。

楽しむ背景

私たち日本人はコンテンツを楽しむ際に背景が不在の場合が多く、
コンテンツ自体に既に背景が用意されていないと、
何故それが楽しいのかというのが分からないという根本を抱えています。
これは別に今に始まった事ではないし、
作る側も自由に作っているつもりでも、
無意識の内に楽しむ背景を傍受しており逃れられないものなのだと思います。

私たち日本人には、デザインや印刷を楽しむだけの背景が無いというだけの話で、
おそらく、浮世絵や工芸に並ぶ職人技を楽しむ背景は持ち合わせているのですね。
この違いに気付けるまで、
fengfeeldesignはかなりの時間、無駄な苦悩を味わってきたし、
何か諦めない努力みたいなのをしてきたんだけど、
ああ、ダメなんだと思う他ないという事実があったのと、
グラフィックデザイナーとして生きいく中で、
自分の持ち得ているスタンスだと案件が少なく、活躍する事も出来ず、
仕事の話も途中で頓挫する事態に対して、
不条理を感じていたものが、
仕方がないというか、
それを楽しむ背景が無いのに、
無理やりはダメだよなーって思わしてくれたのでした。

そうなんですよね、
そもそも此処でやろうとしている事も、
そういった楽しむ背景が不在な所に、
一石を投じたくてこうしている訳で、
もしよかったら思いを同じとしてる人と話をしてみたいと思ってるんだけど、
まあ、少数派だから居ねえだろうなあという気持ちでもあります。
今まで会ってきたデザイナーでも居なかったもんなー。
いや、分かるんですよ、
居なくて当然、だって此処は日本だものね。
此処には此処の在り方みたいなのがあって、
其処にこそ在る理由のものを用意し、
それに従って、物事の概念を合わせていくしかないですもんね。
それがプリパブではグラフィックデザインであって、印刷であって、という話なだけで。

よく言うじゃないすか、
日本のデザイン、とか、
これって、デザインそのものではなく、
日本特有の概念、この場合は伝達としての言語とでもしておきましょうか。
その解釈の基でのデザイン、となる。
そのデザインから生まれた結果を、日本のデザインというべきかどうかが疑問なのですね。
だって、だって、違えば、印刷そのものが変わってくるじゃないすか、
グラフィックデザインを司って生まれた印刷という訳にはいかなくなるんじゃないすかね。
なんか逆算しちゃってるというか。

印刷にとって、
何が高度なのでしょうか。
デザインにとって、
何を高度とするのでしょうか。
プリパブでは、印刷を実現したいのです。
fengfeeldesignはグラフィックデザインが可能なのです。

みんなが分かっている範囲のものを作り、
分かっているからこそ賞賛に値して、
だから作る理由や価値があって、
そういう印刷の実現こそが、
グラフィックデザインを介して行われたと言えないでしょうか。
エンスヘデのフルニエの、
そういったものでさえも、
楽しむ背景さえ分からなければ「単なる素材」でしかないのは、
当然ではないでしょうか。

お金を出す人

以前、ある印刷物のブロジェクトの際に、
「お金を出す人」である出資者の方が、
自分はお金を出しているだけで制作している訳ではないから、
出来る人に自由にやって欲しいという理由で、
一歩、後ろへ下がるという判断をしてしまうという事があって、
いやいや、それはおかしいだろってなもんで、
デザイナーともどもと同じ立ち位置で話が出来るように仕組む、
という出来事がありました。

ついつい、作るものは、作る人を主役に置いてしまいがちですが、
僕は違うと考えています。
デザイナーとクライアントという立場以外の場合や、
会社のデザイナーであれば、会社の案件って事になるのでしょうけど、
どうしても目に映るのは作った人の仕事、もしくはスポンサーの、
どちらか一方なのは、
どうもやはり違和感というか、
もちろん、そういうのもひっくるめて1つの出来事であるが、
どちらか一方を主体として置くのはどうかと思うのです。

著作権などを主張するという行為は、
とても見苦しく感じてしまいますし、
もし、目的に対して物事をシームレスに運びたいのであれば、
それはとても不要で無駄なものだと考えています。

作ったものがあるだけの話なのだとすれば、
それに対して、自分がやったとか、そういうのは自由に言っていいと思うし、
それが作った側の権利であったり、
お金を出した側の所有物であったりするのは、
不自然に感じずにはいられないのです。
ただ、作ったものがあって、
結果があって、
そのようになった意図があって、
判断として、その方が良いというのであれば、
そうすればいいだけの話なような気もします。

良い話であれば、
そもそも、こういう事を考える必要はありませんし、
そうした方がいいという方法も自然と自ずと導き出されるものだと思うのですが、
それらを権利や決まりごとのように語るのは少し違うかもしれません。
そんな時に立場として、一番に台頭に立つのは「お金を出す人」すなわち出資者です。
印刷物にもかならず出資者が存在していますし、
その出資者は少なからず何かがあってその話を進めているに違いありません。
これはもしかしたらスポンサーという考え方から少し外れるとは思いますが、
それはとても仕事として捉えるなら契約によるものと推測されますが、
「お金を出す側」と「作る側」は対等であって欲しいなと常々考えていますし、
なによりも出来上がったものが強くある事を願っているのです。
つまり、
そのような奇跡を起こそうというのに、
一歩引く事は違うなと感じたのですね。

今の状況って、
印刷に限らずだと思うのだけど、
「こういうのがあったらいいよね」が大体の主流で、
今は少し虚構に寄っていってる傾向はありますが、
それでも、作る人だけが、スポンサーだけが描く夢では無くなっていると思うんですよね。
技術を保有している人がどんなに増えても、
それを理解して受け止める人が居ないと、
まず、出資は起こりませんし、
結果、自分たちで負担する事になる。
それは、もう、歴史的に見ても散々やってきたし、
その末路というのも過去から十分に学べるのではないでしょうか。

クライアントワークにも、
もしかしたら限界があるかもしれません。
より、「出来上がったものが強くある」状況作りというのは、
単に技術で語れる話しではないかもしれません。
高度な技術というのは、何に対して高度であるかでその意味が変わってくるとも思うのです。
可能性を感じませんか?
素晴らしい印刷の実現は、
高度な印刷加工の技術だけが引き起こせるものなのでしょうか、
それとも、大きな資金力を持った企業が引き起こせるものなのでしょうか、
偉大な作り手、もしくはデザイナーがもたらすものなのでしょうか。
歴史や文化は、過去になれば全てが切り捨てられ、新しくなるのでしょうか。
出来上がったものを賞賛出来るだけの批評力はありますか?

1つの奇跡を起こす時に、
考えなくてはならない事や、やらなくてはならない事は、山ほどにあると思うのです。
それは、様々な要因が含まれますが、
関わる全てのもの、人が、とても勉強した状態で、
それを現れる状況が整っていて、そういう事が起これば、どれだけ素晴らしい事か。
一部ではなく、全部が揃っている奇跡をいつか、かならず起こす、起こしたいと思う人は、
そういった専門家だけではなく、「お金を出す人」も含まれるべきなのではないでしょうか。

例えば、
お金を出す人が居て、
それらを実現するに必要な優秀な人達が居る状況を作るだけでも
それはもう十分に尊く、美しいものだと思うし、
その上で、素晴らしいものが出来上がるとなれば、
それが物質であれ、状況であれ、
こんな奇跡は滅多にありませんし、
それらを賞賛しないなんて凄くもったいないと思うのです。

ヒエログリフの展開について

kado the 108の時の失敗を拭い去りたくて作った部分が大きいかなー。
あ、いえ、ね、kado the 108は年末の31日の日に煩悩の数的な意味で、
シャレで、お歳暮というかお年賀的な意味で、
無料で配布したんだけど、
これがまた大爆発しちゃって、
最終的には推定だけど8万ダウンロードくらいされちゃって、
ああ、しまったなー、って思った訳です。
100円でも設定しとけば良かったなーって、
結果的にはfengfeeldesign( http://www.fengfeeldesign.org )には一銭も入ってこなかった訳ですから。
ばっちり将来の無い35歳、貧乏街道まっしぐらです(単なるバカなだけなのだけど

kado the 108は現在こちらで150円で購入出来ます→
https://fengfeeldesign.booth.pm/items/61639

ほいで、そのリベンジで、
じゃあ、次何を興せば同じくらいの現象作れるかなーってところで、
ヒエログリフがありました。
もはや、とくに愛とかは無いです。
お金が欲しいだけ、お金が手に入れば次の事が出来る感じ。
もちろんエジプト好きだし、
デティールの整ったヒエログリフを自由にデザインで使えるようになる事は、
凄い素敵な事だと思ってたのもありますよ。

ヒエログリフについてはこちら→
https://www.facebook.com/printersflowers/photos/?tab=album&album_id=959170410810621

で、150円だったかな。
やってみれば、これがまた売れねーでやんの(バズりさえしなかった。
スゲー!やっぱタダはスゲー!と思いました。
タダは偉大!みんな大好き!
でも、データ自体は優秀だしヒエログリフだしって事で、
ヒエログリフカード( https://www.facebook.com/printersflowers/photos/?tab=album&album_id=993300010730994 )
に始まり、
アクセサリー( https://www.facebook.com/steeldrops/photos/?tab=album&album_id=1763494480528590 )、
エジプシャンクラフトテープ( https://www.facebook.com/printersflowers/photos/?tab=album&album_id=1045172372210424 )、
エジプシャンクラフトシート( https://www.facebook.com/CosmotechInc/photos/?tab=album&album_id=1187313157967976 )、
マスキングテープ( https://www.facebook.com/printersflowers/photos/?tab=album&album_id=1178445025549824 )、
とヒットを飛ばしていく訳です(相変わらず僕にはお金は入ってませんが。
で、これアカンわ、ってなってデータ売るの止めて、
STEEL DROPS( http://www.steeldrops.org )を母体とした商品の共同開発と総括的なサポートに切り替えたという訳です。

そだなー、価値の担保って凄く難しいなと思いました。
皆んなが凄い!と思う瞬間を引っ張り出す感じとか、
まさにデザイン!ってやつなのですが、
やはり、ヒエログリフを取り巻く中で、
様々なお問い合わせがありました。
とくにこのデータを使って商品を作りたい系のやつが多かったですかね。
30件くらいだったかな。
どれも、fengfeeldesignに有利な条件のものがありませんでした。
ここまで、結果出るだろ、長寿命だろコンテンツって分かってて、
その条件かよ!ってツッコめるものばかりで、
もちろん、がんばれ!って気持ちが大きいのですが、
企業的なところの問い合わせでもそうだったからなー、凄く残念な気持ち。
せめてウィンウィンだったらなー。
で、結果的に、
一番いい条件だったSTEEL DROPSと契約したって感じです。
でも、他にいい条件があれば、身売りしまくりたいと思ってるし、
その場合はSTEEL DROPSも関わってくるから、
段々と金額は上がってきますし、条件もハードルが増えます。
もちろん、その金額に合わせて、やれる事も増えてくるだろーし、
そこはやっぱウィンウィンなんだろーなー。

みたいな書き方をするとダメですね(笑
いや、書き方は悪いですけど、
結構、普通の流れを分かりやすく書いてみました。

いやあ、fengfeeldesignの作るデータ、そんなに安いですかね。
今、それが一番知りたいかな。

花形装飾活字への募る想い

花形装飾活字というものを製作という観点から見始めて10年くらいが経ちました。
それまではどちらかというとミニマル主義というかtomato的な感覚的な何かが大好きな、
現代っ子一直線なグラフィックデザイナーでした。
もともとは写真をやっていたというのに、
たまたま参考に買った中島英樹の作品集に影響されて、
写真を学ぶ最高の環境に居たというのに、
その事をすっかり忘れてしまい、
デザインの領域に迷いなく踏み入れる事となり、
何故か花形装飾活字という謎ニッチなものに生涯を掛けるハメに。

fengfeeldesignが作った装飾活字のデータはこちらで購入可→
https://fengfeeldesign.booth.pm

装飾活字は、どうしてもある種のサブカル系の人達的なノスタルジー的なあれに見られがちですが、
fengfeeldesignとしてはあんまそこらへんには深く突っ込んでおらず、
もちろん嫌いではないですし、そういう見方があっていいと思いますが、
どちらかというとグラフィックデザインの1つの在り方として見ている場合が多いかもしれません。
装飾活字をグラフィックデザインとして捉えて利用する方法を、
ずっとひたすらに考えて作っている状況を続けています。

グラフィックデザインとは関係の無い人がこれを使っている像は、
今の所はあまり見ていません。
理想で語る事が出来るとすれば、
やっぱデザインとかって、一人でやるもんじゃないですし、
主観にしないで皆んなで見てみるってのが基本だと考えているので、
例えば、これを使ってウマイ印刷の実現が出来ればいいなあと考えています。
それが、そのきっかけとなる発起人が素人でもいいと思いますし、
グラフィックデザイナーである必要はまったくない訳です。
この装飾活字を使って何か印刷を実現したい。
でもその技術が無い。
誰か出来る人に頼んで作ってもらおう。
自分でやるのもいいですが、
誰かを巻き込んで、
誰かにやってもらう事の素晴らしさはとても大切だと思います。
今、一人で完遂出来ちゃうじゃないすか、なんでも。
装飾活字ってのを使うと、もはや一人何役なんだ状態になる。
それもいい、それももちろん、それが出来るのであれば凄い事だと思います。
そもそも、装飾活字自体が、
ある程度の実力があるデザイナーじゃないとウマク扱えないシロモノなんですが、
そういう人達に話し掛けて、
素敵な印刷物が出来ていく世界の方を見たいのですね。

でも、今は自分が使うからという理由なのです。
それもいい、それもいいのですが、
その範囲だと、この装飾活字というスタンスの能力の2割も使えていないのです。
もったいない!本当にもったいないのです!

あくまで理想です。

一人で作るのをやめてみる。
それはとても大きなハードルで、
状況と熱とお金が無いと出来ないものですが、
多分、そういう目線を持つ事で印刷は楽しくなるし、
その方がカッコイイ策定かなと思います。
そして、花形装飾活字をグラフィックデザインとして捉えた時、
もしくは、花形装飾活字を印刷に使用すると決めた時、
既に策定として起用出来ているような気がします。