グラフィックの最強の使い方、もしくは、やっぱりグラフィックは凄い的なあれ

そう、あの印刷の通販で有名なグラフィックさん(http://www.graphic.jp)である。短期納期安価で信頼出来る安定品質。それだけでも十分なのに、それに加えて豊富なオブションも魅力的だ。中には印刷を依頼せず抜き加工のみを依頼するツワモノも現れるほど、その多様性の跳び方は他に類を見ない印刷の仕組みを作り出している。fengfeeldesignも使う事がとても多い。なにせ、ここで基本的に必要な想像しうる全てが出来るものだから、「使い方」の工夫次第では無限の可能性を秘めている。印刷品質も最新の機材の導入など、その安定性に加えて、他の安価な通販システムによるオフセット印刷の追随を許さない出来栄えなのは他には無い特徴だと言える。納期を例え7日に設定していても5日で仕上げて発送してくれるなど、生産面においても無駄を作らない社内での仕組み作りは、もはや極みの域に達していると思われる。もちろん、仕上がりの際の色などを追及したり、本来の意味での印刷物を制作すると言った技術レベルの話をしてしまうと、金額の通り、納期の通り、まあ、こんな感じ。と言った具合に、まあまあな仕上がりに他ならないのだが、それらを差し引いたとしても、このグラフィックを使用するメリットの方が大きく感じるのは、使いやすさ頼みやすさホスピタリティの点において、圧倒的な利点があるからに他ならない。ただ、もちろんデメリットもある。前述したように、高品質な印刷加工を実現出来ない事もそうなのだが、印刷加工がディスカウントショップ化するというイメージの定着に一役買ってしまっている節がある。これは、もともと金額を明かさない製造業のタブーを破った形になるのだが、金額の提示自体が発注者ではなく消費者という、なんとも気まぐれな対象を生んでしまったのだ。グラフィックは、本来提示していい金額ラインを未余ってるいるようにも感じる。値段の提示は印刷加工そのものを「商品化」する動きの1つであると言えるが、この動き自体は、これから主流になりうる可能性がある観点ではある。ただし、それは根本的な発注そのものを起因するべき対象があってこそのものであり、印刷の加工の品目そのものを商品化する事であってはいけないのだ。加工そのものに一旦価値が付いてしまい、その範囲で市場が出来上がってしまうと、発注のしやすさや市場での勝利を得たとしても、印刷加工の業界そのものの発展に寄与する事は、到底適えられない難しいものへと変貌を遂げる。製造と商品は違うのだ。今や一般的になってしまったグラフィック的な方式というものは、一目で見ると一時の便利を得る事になる。しかし、そのイメージは、いざ、高品質な加工を行う場合や、グラフィックでは出来ない加工を発注したい場合に、とても大きな壁として立ちはだかる事になる。その事を、このグラフィックを使いこなすヘビーユーザー達は知っておかなくてはならないのだ。もしかしたら、グラフィックだから出来るのであって、他の印刷加工とは別の物、というイメージを持った方がいい。グラフィックは凄い的なあれは、グラフィックが独自に齎した「印刷」という名の「策定」であり、それが印刷というイメージの全てにするべきではないと思う。そうすれば、グラフィックを最強に使いこなす事自体はとてもイージーだし、その範囲で、とても便利な印刷を実現出来るとも思う。ただ、それを広義な意味での「印刷」として捉えるのは間違いである事を、脳裏の片隅に置くべきだ。まあ、それでもやっぱ、安くたくさんの印刷物を手にさせてくれているグラフィックさんは凄いと思うし、これからも多分、そういう意味での印刷を引率していってくれるんだろうなと予感しています。そして、fengfeeldesignも使っていく事になる。グラフィックはスタンダードになってしまったけれど、短期納期安価で信頼出来る安定品質というのが、既に印刷にとって特別だし、そういった意味で希少価値の高い状況を作っている。こんなに最新の技術を容易に使えるとか、ガンガンと印刷と戯れていいと思うし、グラフィックじゃない所に頼むという事は、短期納期安価で信頼出来る安定品質が達成された策定ではない所に頼むという事でもある。その違いを知っておくのも、このグラフィックという場所を価値に感じる1つの指針になる。

低予算での印刷の正しき捉え方と実践

印刷は金が掛かる。でも掛からないというイメージも同時に持たれている。これを低価格帯に抑えた加工所の存在を否定出来る問題にしていはいけないし、実際のところ、かなりグレーなところもあるが安価だととても便利で使い易いとも同時に言える。また印刷と一口で言っても、その種類は多岐に渡っているし、一概に印刷だから高いとか安いとも言えないのが現状だと思う。しかし、それでも印刷は金が掛かる、という意識は常に持ち続けておいた方が良い、何故なら、そうしないと印刷自体が死んでしまうし、その中に居る人でさえ殺す事になる。印刷を安くする、という意識を持つ事が既に印刷を放棄しているし、印刷はそれくらい高度な技術を持ちえた製造ラインなのだ。ただし、だからといって高価なものが常に正解という訳でもないと思う。その中においても低予算というものの捉え方が出来る範囲というものがあって、それは考え方1つの変化で「印刷を実現」に至るとても実践的な方法とも言えるのだ。元来、印刷というものは、2次元の情報を複製する目的で考えられたものである。複製し、その情報を流布する事が、文化的、意識的にも高度なものとされてきた。同時に造形的な価値についても、印刷初期から備わっている事も注目すべき点である。とくにリトグラフの時のロートレック、ミュシャなどのポスター芸術は、複製という名の印刷に美術的価値のようなものを与えたのと同時に、広報やパッケージの面で強く影響し、そういう方向の美に対する関心を引き寄せる結果になった。それは今日まで像として再現度の高さの技術の高まりとして続き未だに発展し続けている。数を多く、同じ造形物を作り上げる事は製造にとっての根本であり、同時に私たちの美術的な観点を拡張してくれる手段としても、とても有効的に働く、そしてその一面としてデザイナーという存在が活躍し続けているのだ。しかし、発注者はデザイナーではない場合が多いし、印刷というものに慣れていない方が自然である。製造の中でも印刷は、紙、という扱いやすい素材のおかげか、とてもその技術の種類は多岐に渡ってたくさん存在している。今、新たな視点として、技術だけを抜き取り今までに無い目的や利用を促す流れというものがある。極端な話、製造という名の複製の概念を取り抜いて、造形的な部分だけをクローズアップして伝えたり、実現、実践している例もあるようだが、このプリパブでは、その流れ、またはそうやって誕生したものについては否定的な立場にある。それは、これらが実践ではなく実験だからだ。印刷の技術は多岐に渡っているから、今、実験的な制作は安易に思い立つし、実現にも至りやすい。だが、そういった姿勢のものを、いざ実践しようとした時に予算的な問題や製造的な問題が、かならず発生する。そのようなものは、印刷にとっての実験とさえも言えない。しかも仕上がったものは単なる造形であって製造でもない。印刷にとって実験であるなら、それが製造されるという事を実験されなければならない。印刷という技術において造形という一面のみをクローズアップして形にする事は技術そのものの高騰に及ぶし、それが印刷にとっての価値になったとしたら予算の確保が難しくなり、製造数が著しく減少する結果となる。そして印刷が死ぬ。何故なら、印刷は数の単価だからだ。数が減ると単純に収入が減る。機械を動かすには一定の金が掛かる。そうなると、自然と、単価が上昇し、または技術料が発生し、印刷というものが本来の製造という意味から外れてしまう。「印刷に拘りたい」のであれば、その拘るべき視点が必要なのだ。前述のように、技術の種類に拘った印刷という捉え方をした場合に、しかも低予算である場合に、とてもじゃないが実践的ではないし、とてつもない予算の額で動かせれるなら話は別だが、低予算において、そのような拘りはどちらかが死ななければならない。それが正しい認識だとはとても思えないのだ。低予算での印刷の方法は幾らでも存在している。それらが単に、今、認識されている印刷にとっての拘りというものとは肌色が違うだけで、印刷として成立している、しかも低予算で実現が可能、なものというのはとても崇高で、それもまたれっきとした印刷なのだ。印刷は金が掛かる。印刷にとって、お金を掛けるポイントというのは何処にあるのか、また、それがどのように作用するのか、それらを想像し予算を考える事で、より実践的で美しい印刷に至る事が出来る。ある美しい基準を印刷にぶつけるのではなく、印刷が持つ美意識の限界を理解し、その中で美しさを謳歌した方が、もし、低予算の場合に、発注者にとっても、印刷者にとっても、お互いが死なずに済む実践的な方法だと言える。また、あなたの予算ならこれくらいの事が出来ますよー、という指針を打ち出すのも策定であるし、そういった場合の手助けになると思う。

紙の選定を行う目線

印刷の紙はどのように選べばいいのだろう。様々な観点があると思う。日本の場合は、とても紙の種類が多い。製紙にしろ、洋紙、和紙、企画系の紙などなど、用途やニーズによって様々なものが揃えられている。感性やセンスといった五感で選ぶ人も居るだろうし、技術によって、その区分けで選択する人も居る、それは、どちらも間違いではないし、正直なところどっちでもいい話ではあるが、実際の所、印刷にも様々な種類や技術があって、それらに適した紙というものが存在している。物理で押す、刷る、という共通項において、それはとても重要な事だ。何故なら綺麗に刷る事と、汚く刷る事は、それそのものの善し悪しの以前に、策定を行う上でかならず考慮に入れなければならない事だからだ。その印刷は、その品質に見合っているかどうか、時には綺麗に刷らなくてもいい場合もあるだろうし、汚くても問題ない場合だってある。それらをキチンと分かった上で行うのが策定というものの役目にあたる。今までの印刷は、自分たちの置かれている状況の範囲内で価値体系を算出し印刷の善し悪しを決定してきた。それが所謂ところの業界と言われている範囲での、立場の強さや、こいつ分かってねー感で閉じてしまうあの感じである。策定は、印刷からそういうものを一切の排除が出来る上に加えて自由を与える事が出来る。紙の選定もそういった枠内に現在も置かれている現状に目をやらなければならないと思う。1つずつの紙も、そもそもは目的に沿った所から誕生しているが、その目的を一旦果たし、残り続ける事で、別の用途と手段で用いられる例も少なからずあるはずなのだ。その意識の水平思考とも言うべき思考の移転のようなものを、即興で組み立てるのではなく予め予想しておく事で、可能性は広がり、あらゆる状況への対処がとてもやりやすくなる。プリパブでは、其処を重点的に取り揃えておきたいと思うし、重要な部分として、何度も解説する事になるだろう。日本には紙の種類が多いので、状況に合わせて、ついつい、1つの物事ずつで考えてしまいがちである。もちろん何度も回を重ねれば、パターンが見えてきたり、印刷所によっては技術の経験値や、機械によって定められた範囲というものも存在している。ただし、それらは今までに培ってきた自然発生での策定によるものに他ならない。一度、実際の印刷に踏み込む前に、このような印刷と加工を行う上での紙を想像をするだけで、本番での仕上がりがかなり変わるのと、それこそが紙を選定する正しき姿勢でありプリパブで一番伝えたいことなのだ。同時に今現在、そのような策定を多く持ち得ている人達というのは専門分野に寄ってしまっている。そうなると、こいつ分かってねー感を出してくるのは仕方のない事なのだが、プリパブでは、そこらへんの所を知らない人でも勇気を持って印刷所に発注が出来るまでを作り出したいのだ。その中で、紙の選定の部分で、どうやらつまずく人達が、印刷技術の種類を選択する以上に多いように感じている。fengfeeldesignも何度も経験した事なのだが、紙を選ぶ時、日本人は、目がとても肥えていて、いいな!と思ったものは大概、金額が大きい場合があり、その、いいな!という意識部分で予算が適わない金額の紙を、似たもので代用する形で選定すれば、その似たもので実現出来たとしても価値体系として、どうしても目落ちしてしまう現象があるが、それは紙の良さ、という1つの観点でしか見れていないからで、それはとても勿体ないし、目落ちしてしまうと判断された紙で、実際にそうであったとしても、それはその紙の作られた本来の目的に沿った策定によって選定されるからこそ輝くのであって、その即興で作られた策定における選定観に合わなかったというだけの話なのだ。紙の選定は、印刷の技術という純粋な観点でみれば膨大なパターンのようにも見えるが、業界と言われるシーン、カテゴリーに分けてしまうと、本来の紙の目的やルールが見え、その選定の幅がとても縮まるのもまた事実だ。しかし、だからと言って、今、印刷を行いたいと思っている人達のニーズがその業界という状態にあるとは限らないと思うし、今やプロフェッショナルではなくても発注が可能な現状の中で、それに答えていく事はとても意味を持つ事になると思う。だからこそ、そのような新しい発注者にも、今まで専門分野に寄っていた人々にしか出来なかったクオリティを達成する場合に、紙の選定にも、目を向けるべきだし、印刷を策定する視点での紙の選定という在り方を是非知ってもらいたいなと思います。

策定を公開するメリット

かつての資産であり、それぞれの個人が所有し仕事に成りえた「策定」を公開し、共有するメリットは何処に存在するのだろう。デザイナーや、それらに関連した人々が持ちうる財産を投げ捨てるような行為にどのような意味があるのだろう。いや、果たしてそれは投げ捨てる行為と言えるのか、または現在もその資産としての価値は保たれているのだろうか。答えはとても複雑です。印刷分野の発展は技術と共に歩んできたというのは既にお判りの通りかと思いますが、中には公開する事がデメリットとなる「策定」が存在します。それは今現在でも価値を持ち得ている現在進行形の「策定」です。もちろん中には公開した方が効果的なものが存在していますが、それがもし誰もが使えない限定的な「策定」だったりすると、もしかしたら印刷の発展にブレーキが掛かってしまうかもしれません。何故なら、脱落者が増え発注の難易度が上がってしまうからです。また、大きなメディアになればなるほど、その公開には気を使うべきだと思います。なので、かならず、かつて価値のあった、そして今は価値の無くなったもの、または、現在進行形であっても誰もが扱えるもの、を選定する必要があります。パブリックアートや、パブリックドメインのように表現の所有に寿命が定められているように、印刷にとって「策定」にも寿命が存在し、解放されるべき観点があるのです。文学で言うところの「青空文庫」のような機能が印刷にもあらねば、かつて価値が存在したものは忘れさられ無くなります。しかも、この「策定」はパブリックアートや、パブリックドメインよりも、その公開の意味は大きく、単に著作者の死後、という感じで、時間の流れに抗えない類のものではなく、「策定」は事例という意味が強い為に、そういった時代性や感性に寄らない、まさにそれこそ必要ではなくなった技術、方法、局面といった、一度無くなれば思い出されたり復活する事のないそういった要素が含まれます。だからこそ公開が必要なのです。しかし、表現や作品といった単位での公開は、時代や感性に取り残されてしまいます。せいぜいノスタルジー的な背景を拭えない古い何かに変化するのは目に見えています。そこで「策定」なのです。「策定」という考え方は、技術に寄った視点です。なので、公開をしておく事で、時代性にあった利用の仕方をたくさんの人で考える事が出来るのです。また、この場合の時代に合ったとは、それぞれの局面であり、それは新しい策定だけでは解決しないものも含まれているはずです。また、これを「技術」とせず「策定」としているのは、印刷にとっての「技術」は機械そのものですから、かならずいつかは無くなります。しかもそれはかなり短いスパンであると過去の流れからも汲み取れますし、よりこれからは、そのスピードが増していくものと考えられます。活版印刷機も既に大型のものは無くなりましたし、稼働していたとしても、それはとても稀な状態だと言えます。ただ、そのような予想される事態、状況の悪化を堰きとめる役目が「策定」を公開する最大のメリットではありません。あくまでそのような事態は「技術」が引き起こす自然な流れあり、逆に堰き止めてしまっては技術そのものの衰退を招く可能性があります。しかも堰き止めてしまう事で「策定」でさえも、その流れに巻き込まれる形で次の技術に生かされる事なく閉じ込められてしまう危険性があります。大切な事は1つの「策定」は数多くある「策定」の中の1つである事、そして、その「策定」もまた、数多くの「策定」を生むきっかけにあれば、また、そのようなものが選定に及べば「策定」を公開するメリットと言えると思います。かつて価値を持っていた「策定」を新しくし、その事例を増やす事が、このプリパブの使命でもあり、これから皆さんにお見せしたい印刷を介した表現だともいえます。また、これから当然のように起こるであろう技術の変化の際に「印刷」というものが、どのように見られ存在していくのかを想像した時に、もしかしたら、紙に刷られるという事が無くなってしまうという考えに至るかもしれません。もしくは、そういう事態に直面するかもしれません。そういった時に、今、「策定」を選定し「公開」して準備しておく事で、スムーズに次の「技術」に「印刷」というものを残す事が出来ると思うのです。

策定を行うチャンス

方法とチャンスは無数に広がります。印刷を発注するタイミングは、それぞれが抱えている事柄に反映されます。その反映された時を逃さないように、ショートカットキーのごとく策定を用意しておく事で、様々な労力から解放されるのです。では、反映された瞬間とはどのような時を示すのでしょうか。印刷を発注するタイミングの反映とは、その利用目的の思索が達成され、その結果を計画した時に表れます。印刷というものに接する時、多くの人達は、グラフィックデザイナーや、印刷所など、そういった印刷を司る人間に声を掛ける事になると思いますが、その際に勝手な想像や、個人的に抱いている印刷への願望や幻想を元にした声掛けで、無駄な時間を費やするパターンというものが実際に存在したり、他方からそういうお話を聞いたりする事があります。普通は、もしくは、大概は、そのようなパターンの場合は、大いなる愛情で、もしくは、業務内のサービスとして、ゆっくりとリスニングを繰り返し察知し、時に優しく、時には暴力的に案件をクリアしていく事になるのですが、果たしてそれが、印刷を発注する側の投資に見合った方法であるかと聞かれれば、少しの疑問が生じます。その疑問を解き明かしてくれるのが「策定」に当たるのですが、つまり、予め「策定」を行えば、話し掛け方のチャンスを大幅に増やす事が出来るだけでなく、話が多方に及ぶ場合のグリス役として互いのストレスも軽減されるのです。その方法としては、予め多くの「策定」を用意しておく事と、その場合の実例を出来るだけ揃えておく事がとても大切です。また、「策定」という発想は、多くにまたがる印刷の利用分野を区分けする役目も負う事が出来るのではないかと期待しています。その場合にシーンに分けるという考え方も良いかもしれません。同人や、アナログゲームや、音楽、グラフィック、漫画、アニメ、役所などなど、さまざまなシーンで捉えられている印刷というものの見方、技術の選択や進め方などをサンプリングしておき、それらを1つの技術、または利用用途、または可能性を分別しておく事で、それらが必要になった場合の言葉の共通項のヒントとしても活用が出来ます。ただし、重要な事は、この「策定」は個人が一人でたくさん持ち得ている事になんら意味を持つものではありません。今までは、もしかしたら、それがグラフィックデザイナーであったり、そういったプリンティングディレクション的な立ち位置だったのかもしれませんが、いずれにしろ、現在そのような状態が価値になったり、ビジネスになったりは考えられにくく、逆にそのような在り方は、様々な印刷発注の状況の妨げになってしまうのではと危惧しています。ですので、「策定」は、それを公開する事、共有される事、変化し続ける事が前提で行うべきなのです。前時代的な印刷物を通した「モノづくり」は個人の域を出ずに「作品」を良しとしてきました。それこそ、JAGDAで行なわれている新人賞の傾向や、ADCもそうでしょうし、TDCはマシですが、個人領域の個性が光る作品的な何かが社会に影響した事への価値みたいなものが、グラフィックデザインにとっての評価基準になっていたりするのですが。この「策定」は、そういったものから印刷を解放する手段になるのです。前述の評価を「策定」という目線で置き換えてみた時に、その個人として評価される対象は、デザイナーではなく発注者という事になります。JAGDAや、今ある、そういった評価基準となっている協会の類が、あくまでデザイナーを対象とし続けるのであれば、「策定」という評価基準で行った場合に、そういったものからは評価はされない枠の外である「発注者」に光を当てて、よりよい印刷の運用の実現を目指した動きを作る事が出来、それは新たな「策定」を行うチャンスへと繋がっていくのです。

策定によって得られるもの

策定は印刷に目的と自由を与えます。それらは発注者が抱え、対面している物事に由来し形作られます。数多くの策定を取得する事で、対面している物事への対応の幅や、回答のチャンスを大幅に広げる事が出来ます。また、より高品質な印刷が無駄な時間を省いて手に入れる事が可能になりますので、誰もが良質な発注者としての機会を得ます。策定を行えば、本来そうではない分野の人が、該当する分野に参加し、様々な市場の活性化に繋がるものと考えられます。これは、他の分野にも言えることかもしれませんが、圧倒的なモノづくりは注目を浴びて、多くの消費者を獲得するに至ります。それはデザイナーの本分として、しばしば語られることがあります。ただし、誰もが真似できない領域に達してしまうと、消費者のみを産出し、市場そのものの活性化には繋がらないリスクも、同時に発生します。そんな中で、この策定は印刷分野において、一極化を避ける為のカンフル剤としても期待が出来るのです。デザインというものが、ある象徴的なものを構築する事を主体としていた時代がありました。それはとくにグラフィックの分野において言える事ではありますが、そもそも主体をデザインとしていたのは、またはその現象というのは、主体を構築する事が、その時代に合ったデザインだったからにすぎません。それが果たして現在の状況に当てはまるとすれば、とても勘違いをしていると思います。主体を構築する事は、それらの複製の排除に繋がります。果たしてそれは、現在のニーズ、または、熱のようなものにマッチしているでしょうか。言葉は悪いかもしれませんが、誰もが真似できないであろう主体を作るという事は、ユーザーが勉強不足の場合にとても効果を発揮します。「よく分からない」が感動出来る、共感出来るものに対して人は無意識に惹かれるものです。それは、恐らく宗教のようなものに似ているかもしれません。圧倒的なモノづくり、解釈出来ないものというのは、神的であり、一見して、とても官能的で神秘的なイメージを得るかもしれません。ただし、それは、デザインを主体として印刷として考えた場合、少し思想逆行させた、在り方な気がするのです。圧倒的な主体のデザインは、同時に圧倒的な消費者、この場合は信者と言っていいかもしれませんが、それしか生まないのです。その後に残るのは何か、想像すれば簡単な事です。消費者は何も生み出しません。何も発展もなければ、ただ、それを扱うのが上手くなるだけで、ただただ消費するに至ります。この策定は、それら象徴的で主体的なデザインに警鐘を鳴らす、または、否定する方法であるとも言えるのです。何故、そのような主体デザインに対して否定になるのかと言うと、それらも「策定」としてしまうからです。策定は「デザイン」ではありません。あくまで、印刷を策定するに至るものですから、デザインとは役目もポジションも違います。もちろん、策定そのものは、これからのグラフィックデザインのチャンスと機会を大きく促すきっかけになるものと考えられますし、とくにプリパブでは、この策定はそのように扱う事になるのですが、あくまで、デザインではない、印刷に至る為の方法論である、という事を、是非、念頭に入れていただくと、とても分かりやすいかと思います。策定を行えば、すべてのモノづくり、この場合は印刷の全ての現象という事になりますでしょうか、それらをフラットに見渡す事が出来ます。そうする事で、今まで神的で、象徴だった主体のデザインの結果としての印刷物もフラットになり、その策定を全ての対面している物事がある皆さんが利用する事が出来るのです。

花形装飾活字見本帖が完成しました

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この度、fengfeeldesignが制作と販売をしている花形装飾活字の見本帖が完成いたしました。
今までに制作した全ての装飾活字の見本を網羅しております。
入手方法としては、2015年10月17日(土)から始まる、
コスモテックでの『 活版ホログラムステッカーCMYK( http://blog.livedoor.jp/cosmotech_no1/archives/51857521.html ) 』 キャンペーンにて、
発注された皆様に同封していただける事になりました。
このステッカーにも制作と販売している花形装飾活字( https://fengfeeldesign.booth.pm )をご利用いただけると、
とてもピッタリかと思いますので、
この機会に是非ともご検討いただけましたら幸いです。

また、【匣ノ匣】さん( https://twitter.com/enginhaconohaco )にて置いてくださっておりますので、
来店いただき是非是非ゲットしてみてください◎

関西の方では、精光堂文房具店さん( http://www.seiko-do.net )にて11月5日から置いてくださる事になったので、来店いただき是非ゲットしてみてください◎

■見本帖の仕様
Design : fengfeeldesign( http://www.fengfeeldesign.org/
装飾 : 花形装飾活字を愛でる( https://fengfeeldesign.booth.pm
Print : Cosmotech ( http://blog.livedoor.jp/cosmotech_no1/ )
– 仕様 –
paper エースボール
processing 両面 黒消し箔押し

モニターと印刷の違い(または、表されるものの再現性について

アドビイラストレーターの精度ってどれくらいなんだろう。各種ドローイングソフトも含んだ上で、印刷技術がデータに忠実である事を前提として、あのソフト群が数値として表す、その感覚は、どの程度それまでに培ってきた筆やペンや鉛の状況を作り出してくれるのだろうか。画家の人とお話しした時に、『PCで利用されているハイエンド系のドローイングソフトの全てを試したのだが、どうしても「線が丸くなる」』というお話しを聞いた事があります。どんなに解像度を上げ、どんなにデータ上で鋭角にしても、その画家が用いる技術の意味での鋭角を、PCでは再現出来なかったのだそうです。今までに、一般的なものからハイエンドなスキャナまでを試した経験で答えれる事があるとすれば、原画をスキャンをした時に、圧倒的な平面として、モニターに表されるのですが、恐らく、画家がコントロールしている線というのは、おおよそ平面な紙の上であると考えられます。しかし、例えば、その紙にも、実はとても小さな凹凸があって、画家の感じたPC上での鋭角の違和感というのは、その凹凸の角度を無意識の内に利用し作り出された立体的な鋭角だからではないかと推測が出来ます。画家が認識するレベルという限定ではありますが、それを圧倒的な平面であるモニターで再現する際に、スキャナの時点で崩壊するのですから、そのデータをモニター上でどのように修正したとしても、その凹凸を意識しコントロールする事は到底不可能であると考えらえるとともに、それに加えて、印刷の場合にも、例えば、版に仕上がった時点で、紙をどのように工夫したとしても、その再現を達成する事は無いのだと思います。また、違う画家の方とのお仕事の際に、「データはこちらで(画家側で)用意する」という事で、画家の方が自ら、データまでを責任を持って、それまでを完成としているというものがありました。そのデータというのが、とても特徴的で面白いものに仕上がっており、普段、「綺麗に印刷する」という観念で用意するデータとは少し趣の違うものでした。画家自身が原画をモニターに移行し、それを印刷に廻す為のデータとして作成する、その限界値みたいなものを悟っているかのような、とても不思議で、刷りの結果の素晴らしさから、それからのデータ化にとても影響する結果となりました。こんな感じで、やはり、感覚の鋭敏さ、意識の強度みたいなものは、今まで培ってきたものの方が有利であるなと思ったというのあるのですが、これはあくまで、ある感覚をPCというものを使った印刷という利用に特化した場合に、その再現性について、チューニングすると言った視点でのお話です。モニターと印刷の違いではなく、この事について書いたのは、モニターと印刷の違い、という感覚が、前述のような感覚にとても似ているからです。彼ら画家は、あくまで、それまで培ってきた技術や感覚の再現を印刷で行う際に、今の技術の在り方の欠点や、模索の結果を示してくれたに過ぎず、彼らは画家であるし、画材や、支持体の時点ですでに完成しており、それらを再現し刷る行為というのは、オリジナルの劣化を量産するという概念から外れる訳ではなく、印刷技術の高まりの方向の1つ、または、その策定の1つとして挙げられるものであったとしても、それは、再現性という意味や枠からは外れる事のない、なんとも抜け出せない人の感覚の迷宮なのですね。モニターという修正が効く中間地点が発達したおかげで、またはオフセットに纏わる印刷技術、写真製版などなどの発達で「とてつもなく再現性が高まった」とも言えますが、同時に表される印刷に対しての「違い」にも敏感になるようになるという新しい感覚を生み出しました。それが画家であるなら、凄く大きな深刻な問題として表面化します。Kaleidoに代表されるような技術の在り方もその代表格の1つであると言えますが、そのような問題を新しい技術が解決してくれるかもしれません。トリプルトーンもそうですね。モノクロ写真に対しての印刷の解答なのでしょう。この再現性についても、印刷技術の1つの方向なのですが、最近はとくに「モニター」を再現する事に技術の高まりが向いているように思います。この精度の高まりが、今まさに印刷技術として発展を遂げている最中であり、技術を読み解く大切なポイントになります。また、ここで重要な事は古い技術だから再現性が悪いというものではありません。古い技術には、古い技術がもたらす方向の再現性の高まりが、それはそれで存在しているのです。つまり、活版印刷だから、再現出来ないものがたくさんあるのではなく、今や活版印刷でさえもイラレのデータで版の作成を行います。その再現性と精度はとても向上しているのです。もしくは、そのおかげでそれまでに考えられなかったような活版印刷が可能になるかもしれません。印刷技術を見る時、モニターという名の中間地点、またはイラレ、またはドローイングソフトで印刷を制御するのであれば、そういった技術の発展の在り方に注目する事で、解決する問題が増え、技術に合わせて印刷への考え方も変える必要が出てくる事でしょう。また、それらをコントロールする為にも、より多くの策定をし、発展させ、実際に実行する事はこれから大きな意味を持つと思います。

今までグラフィックデザイナーが印刷について行ってきたこと、そして、これからについて

印刷が始まってから、まあまあの時を経てグラフィックデザインが発生し、よくよく考えてみればグラフィックデザイナーが、印刷というものに接してきた時間というのは、印刷技術が登場してから、実はかなりの時間が経ってからで、全体を見渡すと極々最近の話という事が簡単に分かります。現在においては、ここまで、1人のグラフィックデザイナーが刷る、紙に加工するというものに関わるというのは、とても不可解な事であり、ある一部の印刷発注者に過ぎない事実も一緒に付きまとってくるのは異常な自体であると、最近ではとくに、そのように感じます。fengfeeldesignはこれまで、グラフィックデザインというものの視点から印刷を見つめ続けてきました。もちろん、これからも、その視点で見つめ続ける事になると思うのですが、それまでに接してきた、見てきた状況というのものが、あまりにもグラフィックデザインが不在な状態で印刷工程が在るというものが多く、本当にグラフィックデザイナーって存在しているの?というぐらい、存在の怪しいものとして、認識されてきた経緯というものがあります。結論としては東京にこそデザインがあって、デザイナーが居たって感じですかね。むしろ、そういった経済と人とが集合しているところにデザインの必要性が内在していて、このような大阪という名の嘘大都会では、DTPオペレーター的な東京資本から流れてきたクソツマラナイ事案をグラフィックデザイナーという肩書きが、こなすものだから、そりゃもう不信になるわ、と、ひとまず大阪の残酷な状況を報告しつつ、これは本当にホントで、なんというか、東京って、なんだかんだいって、たくさんグラフィックデザイナーって存在していると思うんですが、それをデザイナーとした場合に、大阪、もしくは関西では、リアルに成立してるのが20人くらいだと思います。いや、ホントにこれはマジな話です。この事実から目をそらしたい状態というのが正直あったし、実際、それを認めるまで相当に時間がかかったのは、ある意味、過酷な変態プレイだったなー、というのも同時に認めざるえず…云々云々ありますが、それはいいとして、でもまあ、こんな感じの大阪にもデザインを必要とする話や要望はあるのだが、頼む側になんとも金が無い場合が本当に多いんですね。東京はどうなんすか!いったい全体どうなんすか!というぐらい、なんかお金発生してるし成立しちゃってるじゃないすか。なんかそういうのを見ていたり、目の当たりにしているので、こちとら大阪に居ると、もはやグラフィックデザインは幻想なんじゃないかってのは感じていたりします。まあ、そういう意味で、少し離れた所から、グラフィックデザインというものを見てきたfengfeeldesignが観察し勉強し見てきたものとして、グラフィックデザイナーは印刷に何をしてきたのだろうという疑念と、その判明があるのですが、その一環としての前のPRINT PUB 01がありました。メンバーとしては大阪と東京で半分ずつが参戦し、それぞれが制作を行ったのですが、特徴として、東京はグラフィックデザイナーが多かったにも関わらず、大阪ではそうでない作家やアーティストの人たちがとても多かったのが違いとして表れました。プリパブ自体がネットで平均的にメンバーを集めましたので、情報の拡散の偏りというのは無かったと思いますし、なんせ拠点が大阪というのもあって、個人的には大阪の人たちが多いのかなあと予想していた部分があるのですが、想像以上に、大阪のグラフィックデザイナー、という人達には興味を持たれ無かったなという印象がありました。そもそも、大阪のグラフィックデザイン、とくに紙媒体を中心にしたグラフィックデザインで成立した人達というのは前述の通りなのですが、その状況というのは、成立している人の希少価値の高さとも言えていて、成立した時点で既に偉い、みたいな、そういう空気があります。一方、東京では、成立はしているが、それより一歩先の評価のようなものを得て初めて偉い、となるようで、その上での、欲、というか、挑戦心、業の深さ、みたいなものの大きさの違いをまざまざと感じることが出来ました。あと地方は、印刷オペレーターが多い傾向にあったのも特徴として挙げられます。このような結果の中で、2014年の時点の結果とも言えますが、東京が、私たちの想像するグラフィックデザイナー像を描ける経済や人の質を含めての環境があるとして、それよりも離れたり、経済や人の質のようなものの変化で、グラフィックデザイナーという位置付けや、意味づけみたいなものが変わってくるのが分かったのが、このPRINT PUB 01で得る事のできた最高の成果であり結果でした。その上で、1つ共通点として挙げられるものが、どの種のグラフィックデザイナーであっても、ある一定値、印刷に関わる事が前提として動いている、というものです。その一定値の中身というのが重要で、PRINT PUB 01自体が、その中での印刷技術の育みや観点の発表会みたいなものでしたが、グラフィックデザイナーが印刷について行ってきたものというのは、「作るものを指示」したり「そのフォーマット」を作成したり、というよりも、その欲求の部分として、それらがどう見られるか、という事に全ての印刷物が成立していました。また、その際に、印刷技術に求められていたのが、その技術力の高さよりも、そうした、何かに表現をするものを満たす欲求の部分に合わせてくれる技術を、グラフィックデザイナーが印刷に影響する、求める一定値として表れていたようです。もしくは、それらに関連した技術の高まりを良質なものとして捉えている印象でした。ただ、意地悪なように、テーマを印刷技術の発表という縛りを設けて、雁字搦めにしていたのですが、それでも彼らの出した答えは、その表現に偏ったものであると印象付けられる制作物の発表でした。恐らく、グラフィックデザイナーは前よりかは、印刷技術の解放により勉強が捗っているものと思われます。そうした中で、これから行われる事というのは、実際に自分達が遭遇する状況に対して、最高に利用出来る技術選別なのではないのかなと、想像しています。もちろん、その流れというのは、今までは緩やかに行われてきましたが、ここまで技術の発信や解放が行われてしまうと、そのスピードというのは、ますます加速するものと思われますが、その中で印刷サイドはどのようにあればいいのか、どの技術を残すべきなのか、など、技術側もその選別を行う時がかならず来るような気がします。この新しく再開したプリパブは、そういう事になるであろう状況の中での、無理が起こらない潤滑油としても機能出来ればと考えているのと、そういったものをよりウマク策定する事で、様々なグラフィックデザインと印刷の未来を描ける事が出来ればと願っております。また、その事態というのは本当に近い将来のこれからとして予感しています。

グラフィックデザインと印刷技術

それ、いいデザインだね!カッコイイデザインだね!などなど、今も言うのかな…、そういう言い回しがあるじゃないっすか。ただまあ、今はもう、あんまり聞かなくなりましたけどね…。正直なところ、それくらいデザインというものが日本人に飽きられたというか、デザインというもののカッコよさが潤沢して新鮮味のあるものでは無くなったという事でもあるんだろうなあというのはあります。もっと言うとちゃんと受け入れられなかったっていう意味も含まれてそうな気もします。しかも、これって実は言葉の意味としては間違っていないというのがどうにも悲しみでありつつも、なんとも方向としても間違ってないし、よくよく考えてみると、とても素晴らしい認識なのです。今はどっちかというと、コミックの装丁や同人の世界で言われているのを見るのが多くなったように思います。ただ、他の分野の傾向を観察する限りでは、謎に「意識」だけが高くなってしまい、どうにも立ちいかなくなっている状況というのを見る事が多々あって、「デザイン」を意識する時に、あまり慣れていないのか、よく、表現的にデザイナーって襟が立ってるじゃないすか、ああいう感じで、ああいう感じだけを掬いとった状態というのが自ずと仕上がっていくのですね。意識そのものが高まる事は、それそのもののリテラシーみたいのが向上し、その結果、経済的に大きな作用をする事は間違いないのですが、決して「いいデザインだね!」とは、その意味は大凡違ってくるのかなあというのが、fengfeeldesignが持っている認識の1つです。個人的に「いいデザインだね!」は結構好きなんですよね。そういったコミックとか同人とかの世界って、とても趣があって、個人的な世界じゃないすか。そういうのって西洋の美術ととても似ていると思ってもいて、もし日本でデザインが育まれるなら、そういう場所でこそなんじゃないかってのはとても感じています。ついついデザインそのものが趣になっていた時代ってあったと思うんですよ。もちろんそういうのは個人的に好きだし、そういう人達と喋るのってめちゃ好きなんですけど、そういうのって、本来のデザインの意味とは少し離れてしまうんじゃないのかなってのも同時に感じていたりします。こんな感じで大勢が集まっていて、趣があって、楽しい所でこそ、デザインは機能して「いいデザインだね!」が言えると思っているんですが、そういう目線というのは、グラフィックデザインも同じだとも言えます。そのグラフィックデザインに長く関わり続けているのが印刷技術であり、それがこれからも続くのをとても期待しています。コミックとか同人も、こういったグラフィックデザインの枠内に入る部分がたくさんありますが、この場合、その人と人との結び付きを作っているのは印刷技術、ではなく、グラフィックデザインによるもの、であるという、そういう認識ですかね、そういった視点で見た場合に、デザインはデザイン、技術は技術、策定は策定、なので、「いいデザインだね!」が決して「いい印刷だね!」とは同義ではないし、はたまた「いい策定だね!」でも無いのも当然の話として、しかし、互いにそれぞれ絡み合ったり、重なったりして影響しあっていて、ここではそういう概念としてこれらを取り扱う事になると思います。または、そういうのも含めて「グラフィックデザイン」なのだ!みたいな、「いい印刷だね!」と言わせたのもデザインの力だし、「いい策定だね!」言わせたのもデザインの力みたいな認識も生まれがちかと思いますが、あくまで、そういうものを意図した場合であって、それそのものに影響する訳ではなく、むしろそれは「別のデザイン」に成る事であり、本来の「グラフィックデザイン」の目的や文脈を無視しているような気がします。なんかそれって「グラフィックデザイン」を誤読しているというか、成立した上で、ある程度に成功した「グラフィックデザイン」の事例を行う事を「グラフィックデザイン」としちゃう、fengfeeldesignとしては凄い悪寒が走って大っ嫌いな、まったく別の物ですので、そういうのとは一線を置き、接したいと考えています。まだ言葉としては存在しておりませんが、印刷加工連あたりの、オールライトさんがやっておられるのは、グラフィックデザインというよりも、「印刷を事を考えるデザイン」みたいな、印刷技術に関わるデザインとして新たに登場しているような気がします。それはそれだなという感じです。あれはそういうデザインなのだと思います。印刷技術という側面で、デザインを語る時に、「グラフィックデザイン」となるのは、印刷が何かを刷る像が「グラフィック」だからだと思います。もちろんデザインというものを考える事は無くても「印刷」は可能です。実際にそのような現場はたくさんありますし、むしろその方が多いかもしれませんし、その方が善い場合もいっぱいあります。それでも残るのが「策定」であり、唯一、印刷技術というのものに直接的に作用する視点でもあります。「グラフィックデザインと印刷技術」を考える時、成立させる時、それは今、これからどのような関係であればいいのか、たくさん考えたい部分でもあり、fengfeeldesign自身が、デザインとしているからには「グラフィックデザイン」は現時点で考えられる、「印刷技術」の最高のパートーナーの1つでありたいと願っています。その上で、または、その場合に「印刷技術」に、どうあって欲しいのか、という事にも言及をする場としてここを使いたいとも考えていて、つまり「策定」という事になります。それが、グラフィックデザインというものに対してなのか、そうではない何かなのか、技術自身の捉え方や仕組み方のようなものを1つ1つ定義し、今一度、印刷というものを「グラフィックデザイン」というもの、また、そうではない何かに昇華する為のチャンスをたくさん作りたいなと思っています。