どこからを加工所に頼むべきか、または、その姿勢について

一言で規模、というものがあるし、その加工所が得意としている分野を把握しているか、というものがあるし、一概にこの線引きをすれば善い、という明確な回答を出す事はとても難しいように思います。fengfeeldesignのような規模の場合は、とても個人的な仕事が多いので、部数が少なく、リクエストが細やかなので、最初から加工所に声掛けする事を選択肢から排除し、fengfeeldesign自身が紙を購入して、知人のところのオンデマンドをぶん回して、切ったり折ったりなどをする場合があったりします。DIYといっても、手順や方法が合っていて道具をキチンと選んでいれば、あとは練度ですね、それさえ備わっていれば加工所と変わらないクオリティが出せます。ただ、数が少なく質がいいものが出来るという事でその評判が立ってしまい、これじゃあデザイナーというよりも、もはや加工所じゃねえか!という日々を過ごした後日譚がありますが、今はオマケ的な扱いで限定的に行っている、というのが現状でしょうか。それくらい、加工所に声を掛けるのに気を使うのですが、それには幾つかの理由があります。まずは、実は加工所は個人ユースではありません。個人のお客様で、あーだこーだと、何処かで知り得てしまった加工技術の知識の夢をリクエストしてくださる事が多々あるのですが、その8割の方が条件となる部数と金額で断念する事がほとんどなくらい、個人には優しくないのです。fengfeeldesignがお世話になっている、比較的小さな町のオフセット印刷所でも、初期は1万部、がベターな数値でした。それが5000になり、3000になり、1000になり、今では100部の印刷が可能になっています。ただし、その100部でも本当は1000部の金額と同じというのが条件、もしくは譲歩してくださっています。本当は1万部作りたい機械で100部というのは、なかなかにリスキーだし、同じ機械を動かすコストで考えると、声掛けする事をなかなかに躊躇をしてしまうのです。それでも、個人を相手にしてくださるパターンというのが幾つか存在しています。1つは、職人の価値を上げて、数を作っていた時代よりも単価を上げるパターンです。このパターンは、特殊加工や、活版印刷のように、加工所としても希少価値が高い場合に見受けられます。次に挙げられるのが最近の最新のパターンでしょうか。グラフィックやみかんの樹に代表されるような最新の機材を利用しパッケージ化しているパターンです。この前述と後述の2つのパターンというのは、両極のものと言えると思います。前述は、ワガママを際限なく聞いてくださる代わりに、その金額はとても大きなものになります。後述は、ワガママは限定的にしか聞いてくれないけれど、目的にハマると金額的にとても有利になります。あとは、海外に発注かけるパターンかな。最近はアナログゲーム製作では個人ユースでも利用する事があるみたいです。外国人労働者を雇ってるパターンとかはグレーなのでスルーしときます。現状として言えるのは、元々は1万部が理想だったものが、段々と数が少なくても出来るようになった。という感じでしょうかね。ただし、それは加工所にとっての利益減なので、結局は1万部の時の額面が欲しいのと同時に、だからこそ保ってきたクオリティと、今、私たちが「デザインのひきだし」などで目にしているものは、その背景があるという事を忘れないで欲しいなと思います。つまり、印刷が美しいのは過去に大量に作ってきた経緯があって、其処に裏付けられた技術があるからこそで、それを今は個人ユースとして使える、なんとも贅沢な事になっているという感覚を持っていただく事で、なぜ、そんなに金額が高いんだ!という疑問が晴れるのではないかと思います。また、これを現場目線に変換すると少し違ったものが見えるかもしれません。現場の職人さんや営業さんは、ワガママを叶えたい!と思っています。中にはそうでない方もいらっしゃいますが、積極的に印刷の加工について営業をしている加工所ならば少なからず、出来れば!出来るだけ!実現してあげたい!、と、そう思ってくれている事も加工を決めていく一つのポイントにすると、加工所選びの際にもいろいろと見えてくるかと思います。金額にしたって悩みながらセッティングしているはずです。元々は数を多く加工する事で利益を得ていた業態ですから、今のような変化に対してどのように接すればいいか考えて金額を練りだしているのも想像は簡単なはずです。技術の種類にしても、印刷というものにおいては、ありきたりで金額の安いものが拘っていないというものではないと思います。墨一色であっても、その策定次第で黄金に輝く何かに変貌をとげます。活版印刷はそういった意味では、部数が限定されたリトルプレスにうってつけです。そのような視点で見てみると、どこからを加工所に頼むべきか、は、加工そのものの品目への拘りよりも、目的や予算に合わせて方法や素材や技術を選び取り、その限定されたものから作り上げていく事の方が、印刷というものに対しての正しい姿勢だと言えるのではないでしょうか。

活版印刷ブームとはなんだったのか

かつて、活版印刷ブームというのがありました。もしくは今も継続しているとも言えるかもしれません。この活版印刷ブームにおける一連の流れも、また、ある1つの策定であったと考えられます。紙の風合いや、押しの強さ、活版印刷に用いられる専用インキの独特な墨のテカり、などなど、そういった、物質の変化、手触りみたいなものが、イイ!サイコー!となっているシーンが確実に存在していて、圧倒的な強さのハマり方をしたのが、あの活版ブームでした。もしかしたら技術的な古さも、良さとしてあっただろうし、同時に歴史の深さとか、そういったノスタルジー的なものが元々大好きな日本人の趣向にも上手にマッチしたのかもしれません。また、ある所では、組版的な意味合いを強めて、1つ1つ文字を組む、そのニュアンスの良さや、印刷所へ足を運ぶ面白さもミックスさせて策定してみたり、手キンに代表されるような個人ユースの活版印刷機も、その善いターゲットになったような気がします。fengfeeldesign個人としては、手キンはチョー欲しい感じですけど、それは置いといて、そういったものというのは、技術の高まりとは、少し違う側面の良さみたいなものを掬い取る事で、所謂、活版らしさみたいな、ふんわりした、これこそ日本人が趣向に感じる領域の丁度いい距離感の策定が実現し、機能したのではないかなーと想像しています。なんというか、本来、活版印刷が持つ、技術の高まりというものを一切合切に無しにした上で策定だったので、fengfeeldeisgn的には少し戸惑ったというか、初期からその流れを見ていた者としては間違った認識を印刷全体に与えるのではないかという心配をずっとしていたのを覚えています。fengfeeldesignの実家が、書類や伝票類を活版印刷で発注して販売する場所だったので、あの美しさが誤読されてしまうのではないか、というのは、実際にそうなってしまった今を振り返ると、あの始まりの時にもう少し積極的に自分の信じる方向の活動を興しておればと当時を少し悔やむ事があります。また、それが自分の勉強不足で興せなかったのは反省に感じつつも、ある一定のシーンではありますが、現在では上述の策定が活版印刷の主流になり、多くの人がそのような視点で見ている事は、本来の文脈としての消えゆくかもしれなかった活版印刷の延命処置として捉えるならば、善い策定であったと言わざるを得ず、少し複雑な心境ではあります。活版印刷はとてもシンプルな技術だし、少しの説明で物理的な判明は素人でも可能な範囲だからこそ、状況が想像しやすく印刷の中で、もっとも策定がしやすい技術であるとも言えるかもしれません。紙と版があって、ガシャン、と押すだけなのだから。また、組版の説明も言葉の意味も、活版印刷が元になっているし、もし、そのような本来の文脈としての活版印刷の策定が可能であるなら、こんなにも喜ばしいことはありません。また、ダイレクトに西洋からの文化が色濃く残った上での日本へマッチングさせた技術なので、そういった、デザインや、グラフィック、ビジュアル面において、印刷的な正しき美術価値、または手グセ、または感覚みたいなものを学ぶにふさわしい教材であると言えます。すなわち、本来の文脈としての活版印刷の策定を行うという事は、同時にそのような教材作りにつながるものと考えられます。その上で、あの活版印刷ブームというものを考察し肯定的に捉える事が出来るとすれば、その概要は、入門編でありつつ、それを楽しむ為の解説書、みたいな意味では評価出来るかもしれません。ただし、それが本来の活版印刷の文脈として捉える策定としては、とてもじゃないが、受け入れられるものではありません。そして、PRINT PUBでは、この活版印刷に関しての策定は、そのような目線で行っていく事になると思います。

改めて箔押しを考える

なんかこう、箔押しがダーっと現れた瞬間がありました。みんな箔押し大好き。特殊加工と言えば箔押し。みたいな感じで、もはや周知の事実みたいな事になりました。それでも知らねえやつは知らねえよ、というもんなのですが、印刷という名の樹海を知る者にとっては、特殊加工の目標となる、何かこう土台と言ってもいいんじゃないかな、と思います。ただ、ここでは、こう言い切ってしまいます。「その発端と全てはコスモテックでした。」なんと言っても、fengfeeldesignにとっても箔押しは、コスモテックでしか頼んだ事が無いし、それ以外は別物なんじゃないかなとも思ってます。中でもコスモの営業の青木さんの作り出した印刷の策定は、まだまだこれから効力を持ち続けるだろうし、たくさんの人が印刷加工を面白がる本能みたいなものを沸き立たせていくんだろーなーと予感しています。つまり、箔押し、というジャンルではなく、策定という範囲で改めて箔押しを考えるとすれば、ここでは箔押しはコスモテックを意味するのです。ついつい、印刷は技術の種類で判断し、その種類から会社を選定します。すなわち、それが今までの印刷の策定と言えましたが、そのような規模で全てが進行する訳ではなく、個人での発注と、企業などが発注する場合の違いにはとても大きな隔たりのようなものが存在します。まったく同じという訳にはいかないのです。例えば、個人で見積もりがきた時に絶対に逃さない前振りや、その受け皿となるビジネス体系の変化をいち早く取り入れて形にしたのがコスモテックであり、その営業の青木さんがキーパーソンとなったのは間違いはありません。もちろん、以前の策定の中での話し掛け、つまりジャンルに置ける箔押しの選定でコスモテックを選んだ場合でも、コスモテックの印刷機は稼働するだろうし、その視点においてもコスモテックのブランドに傷が付く事はありません。何故なら、そのように策定したからであり、新たにコスモテックを知り、発注にまで至った人達は既に、その策定の中で機能しているからです。もちろんfengfeeldesignもその策定に乗っかった内の一つだと言ってしまってもいいかもしれません。ただ単に箔押しと一言で言って見積もりを数社に提出させ、希望の金額と質に辿り着いた先にコスモテックが無かったとしたら、それは、ここで意味する「箔押し」にはなりません。会社が違う事はすなわち、種類としての「箔押し」であったとしても、別のものであるという理解が此処では大切なのです。改めて箔押しを考える時、今一度、会社、というものに焦点を当てて考えてみると、印刷を読む上で大きなヒントになるように思います。また、それは箔押しというものに限らず全てに当てはまります。例えば、fengfeeldesignが制作した花形装飾活字をコスモテックで利用する事を取り決めれば、それは既に策定された印刷とも言えるし、花形装飾活字というものが、活版印刷から存在している装飾美術という文脈から、印刷というものを策定してみるのもいいと思います。もしくは誰か別のデザイナーに頼んでみるとか、何処までを考えて、何処までを担うのかみたいな判断などなど、本当にたくさんの組み合わせと思考があるのですね。ただし、これらの全てを把握するのは大変難しい上に、誰かがその知恵を与えてくれるとは限らず、1から構成するとなるとかなりの勉学と訓練が必要です。はたまた、その能力に届かなければ、別の素晴らしき策定に乗っかるしかありません。これは現状としてそうなっている、という話しなのですが、やはり出来れば、発注者がその策定の細部までを管理し正しく認識する事で、それが同時に印刷としての拘りとなって、または仕上がりとなって表れてくるのではないでしょうか。既に、誰かの策定で印刷物を作っている事実の認識と、その策定を意識して自分たちで構築していく事が出来るという意思みたいなものが、コスモテックの「箔押し」に代表される策定のようにたくさんあって、それが閲覧と共有が出来る環境があれば、今よりももっともっと印刷が楽しくなるように思います。また、その発展にこそ、次の印刷があるように予感しています。

コスモテック http://blog.livedoor.jp/cosmotech_no1/
fengfeeldesignの花形装飾活字の数々 https://fengfeeldesign.booth.pm

印刷の完成

印刷の完成する地点は、それを捉える人々の目によって様々に変化します。商品の一部としての印刷、印刷そのものがアイテムだったりする場合、デザイナーだったらデータを納品した時かもしれないし、印刷側なら刷り上がりを納品した時かも、商人なら売れた瞬間かもしれない、はたまた、小説家なら書店に並んだ時とも言えるかもしれません。人を取り除き、印刷という現象だけで答えた時、印刷機が稼働し、紙にインクや加工を与えた時、と答える人もいるでしょう。もしかしたら、時間が経って古びたものに、その価値を見出したり、保存や残す、という意味での完成を唱う人もいるかもしれません。このようにザラっと書いただけでも、非常に多くの完成が印刷には存在している事が分かります。しかもこれは一部であると考えられますし、同時にそれくらい印刷というものが、たくさんの様々な人々に意識され、利用されている事の証なのでしょう。だからこそ、印刷のこれからの発展の為に、一定の完成の指標が必要だと感じます。このように、たくさんの完成の意味を持つ技術は、技術としての発展が多種多様になる傾向にあると思うのですが、本来の西洋が齎す印刷としての文脈とは少し離れた特異な状況であるような気もするのです。またはそれが日本独特の在り方だと言ってしまえばその通りですし、技術がたくさんあれば、選択肢も増え自由な完成をとても謳歌出来る事でしょう。ただし、それが本当に印刷なのでしょうか。印刷をもっと印刷として成立させ完成に近づけた時にこそ、それが印刷であると言えるのではないでしょうか。この文脈としての印刷を意識し定義する事で、技術の意味や存在意義みたいなものが、ある程度一定の方向に進む事になるし、そうする事で、その廻りに存在する概念も1つ1つのピースとして互いに関連を持ち合い、かつてない成立を生むのではないでしょうか。今のように自由すぎる主観が生み出す印刷は、本当に印刷と胸を張って言えるのでしょうか。しかし、残念な事に「正す」や「変える」事は印刷の衰退傾向にある今の現状では当然、無理な事は100も承知です。たしか、2000年代初頭に本気で、印刷が無くなってしまうかもしれないと感じた人々がなんとか努力して作り上げたのが今の印刷の状況である事は間違いはなさそうです。例えば、日本においての印刷の発展期に、この事が真剣に議論されていたのであれば、とても効果があったと思いますが、今となってしまっては、それは不可能に近く、今、議論したとしても、なんら意味が無く、その発展期に構築された、なんとも言えない印刷とは程遠い「策定」のまま、それだけが変わらず在り続けているのはとても胸が痛みます。そして、それが最高にとてもつまらない状況作り出している。凄く泣ける、やばい。もし救いがあるとすれば、技術だけは印刷として成立している中で、新たに個人で発注が出来るようになった今があるからこそ、その人たちが真剣に向きあい「策定」する事で、もしかしたら、という希望があります。もしかしたら日本人もカッコイイ印刷が出来るかもしれない!本当の印刷の完成が出来るかもしれない!それくらい、この印刷の完成について考える事は、とても重要で大切な事なのです。印刷は西洋から齎された文化です。もっと言えば、技術はドイツですが、文脈としてはフランスにした方がいいかもしれません。日本には版画というものがあり、その文脈での書体も存在していますが、それは少し除外した方がいいかもしれません。印刷を捉える時、技術とは何か、文化とは何か、そういうものが一定の水準で理解され、達成された時、本来あるべく完成に近づくのだという意識を持つと、技術としての印刷がより発展し価値が高まります。ただし、これは今ある自由に遊べる状況を剥奪し否定するものではありません。むしろ、今ある印刷の状況を謳歌する為の提案です。日本人向けにもっと書けば、今、あなたが関心を持ち向かい合っている状況や作っているものがダメ、という話ではありません。各々が立ち向かう、同人なら同人(コミケ的な、個人商店なら商店(匣の匣さん的な、アナログゲームの場合もあると思います。そういったものを否定する発言ではありません。むしろそういった状況の中で、より印刷が発展する為にどうすればいいか、という提案でもあります。つまり、そうする事で、様々なシーンで印刷を使用する際に、より価値の高い、より結びつきの強い、より芯のある印刷が「完成」に至るのです。それがここで意味する「一定の完成の指標」であり、それは、印刷の捉え方、意識のしかた、をとても変えるものだと思います。