沈黙シリーズ、というかセガールについて

セガール映画と言ったところで一体今何人の人が彼の出演作を追いかけていることだろう。もちろんTSUTAYAやGEOに行けば新着コーナーに彼の作品は並んでいるし、AmazonプライムやHuluといった動画配信サイトを見ても彼の出演作というのはいたるところに転がっている。しかし木曜洋画劇場が終わり、テレビの地上派で彼の作品が放映される機会が減った今、今後僕のような90年代育ちの人間が小学生時代に楽しんでいたように、夕刊のテレビ欄の下の広告スペースに『グリマーマン』や『イントゥ・ザ・サン』の劇場公開の広告が載っているのを見てワクワクするようなことが今の小中学生の間にあるとは思えない。もちろんその頃からアーノルド・シュワルツェネッガーの作品やシルベスター・スタローンの作品を追いかけるという人も中にはいるだろうし、動画配信サイトやユーチューブで映画の一部がいくらでも観れるようになった今、そういった一人のアクションスターの出演作を全部追いかけるにはおそらく近所のGEOしか映像作品と触れ合う機会がなかった小学生時代の僕よりもずっと環境には恵まれていると言える。しかしわざわざシルベスター・スタローンやブルース・ウィリスを好きになる必要がないし、ハリウッドのアクション超大作の基本トレンドがアメコミのヒーローものかスターウォーズのパクリみたいなSFアクション一色になっている今、どこにもかつての筋肉スター映画の入り込む余地はなく、年齢的にもそういったスター達が続々とアクションが出来なくなっていき、かといってそれ以外の魅せ方で活躍するチャンスもないから次々とスクリーンの中心から姿を消している状況の中で、以前のようにライトな映画好きの子供がそういった映画に触れ合う機会は激減しているのではないかと思う。

いや、もう2017年の現状的にはだいたい壊滅していると言った方が良いのかもしれない。アーノルド・シュワルツェネッガーもターミネーターの最新作に顔を出した以外は今ではほとんど俳優というより元政治家のテレビスターという立ち位置に行ってしまっているし、最近ではドナルド・トランプが司会をしていた番組の後釜に座っているらしい。スタローンも2014年までは『エクスペンダブルズ』シリーズや自身のはじめたシリーズ、『ランボー』と『ロッキー』にそれぞれ素晴らしい有終の美を飾るという立派な仕事をして元気な(ギリギリ)姿を見せていたが、最近ではまた方向性を見失ってしまったのか、それとも完全にやることをやり遂げたのか、映画出演からは距離を置いている。ブルース・ウィリスはアメコミ原作の『RED』シリーズでは往年の張りを見せてくれたものの、基本的に90年代頃から何の進歩もない同じような演技の連続で、この人が一番出演作品ごとの差違を捉えにくい。ニコラス・ケイジは2009年のドイツの名匠ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品『バッド・ルーテナント』ではこれまでの自身のダメ人間役を総括したような素晴らしい演技を見せてくれたが、あとはずっとあの顔で焦ってるような低予算の映画に出続けているだけで、ざっと見渡して今現役で一線で活動を続けている90年代のアクションスターというのはほとんどいないのではないか、というのが現状だと思う。もちろん新世代のアクションスターというべきジェイソン・ステイサムや、『96時間』シリーズで突然海面に浮上したようなリーアム・ニーソンは、それぞれがそれぞれなりに独自の”アクション映画のいい感じ”を体現してくれていてとてもいいのだが、単純に、昔のスターが全員ゆるやかに坂を転がり落ちていっている感じが寂しい、という個人的な感傷を拭うことができない。おそらくこのままいくと、というかすでに今の小学校1年くらいの男の子にとっては初めて見るアクション映画は絶対リュック・ベッソン監督じゃないし、レニー・ハーリン監督の名前を今後どのくらいの人数が新しく覚えるのだろうと思うと絶望感で胸がいっぱいになってくる。僕の中学の時ですらトレンドはすでに『スパイダーマン』や『ハリーポッター』シリーズに移行していた。今後どれくらい90年代風味のアクション映画のファンが増えるかと思うと、供給以前に需要の段階で意識の変化が起きてしまっていると思わざるをえない。このまま行くと日本の伝統産業ではないが(後継者一人系)、このハリウッドが80年代から90年代にかけて完成させたアクション映画というジャンルも、かつての西部劇のように消滅していく一方なのではないかと思われる。しかしこうしてアクションスターがアクション映画という文化ごと坂を転がり落ち、そのままトップスピードで柵をブチ抜け、海に向かって綺麗な放物線を描いて消えていっている中で、坂の途中でスピードを落とすことに成功し、あとはずっと薄暗い路地裏で活動を続けている、そんなアクション俳優はどこかにいないのだろうか?そう考えた時にスティーブン・セガールが浮上する。

おそらくスティーブン・セガールが落ち目と聞いて、ピンとこない映画ファンの方もいるだろう。というのはスティーブン・セガールは落ち目とか落ち目じゃないというより、ずっと同じようなことをしている印象(落ち目とかいう以前の問題)しかないからで、確かに全国の劇場で映画が公開される機会は減ったが、単館で上映される映画作品、つまり毎年制作される主演映画の本数はヴァンダムやドルフ・ラングレンに比べて多いし、シュワルツェネッガーやスタローンに比べるとものすごい勢いで作品が作られ続けている。また、他の落ち目なアクションスターと違い、近年の「落ち目になってからの作品」ともいうべきやや低予算のヨーロッパロケのアクション映画のようなものでも午後のロードショーなど地上波で放映される頻度が高い。だからユーチューブを調べればいくらでも主演作品の劇場予告編を見つけることができるし、出演作のアクの濃さから来るネタ濃度から、ネットでの知名度も高い。だからここ日本ではセガールは落ち目ですらない、そもそも最初から一定のファン相手にしか商売をしていないような、不思議な定着感、ファン層があるような気がする。

しかし実はこんなに安定した人気があるのは日本だけで、本国アメリカでは1998年の『沈黙の陰謀』以来、セガールの出演作品はほぼ90%以上がビデオスルー扱いとなっている。つまりもう20年以上、アメリカ本国では一部の例外を除き、セガールの主演作品は劇場公開すらされていない。日本では出演作品ほとんどになぜか「沈黙の◯◯」という邦題がつき、それが勝手に沈黙シリーズと呼ばれることで、セガールブランドともいうべき安定感を築き上げることに成功しているが、おそらくアメリカではセガールは「同じような映画に延々出続けているB級アクション俳優」でしかないのだろう。セガールが十三に住んでいたことなど大部分のアメリカ人にとってどうでもいいことだし、セガールの娘と息子が日本でタレント活動をしていたことなどさらにどうでもいいことだろうし、セガールが時々話す奇妙な日本語にキュンとくるようなアメリカ人はおそらく0に等しいのではないか。そう考えるとセガールの人気というのは、ここ日本で作られたもの、ここ日本だけで通用するブランド、という気もしてくる。『マチェーテ』(2010年)のような作品に取り上げられるほどそのキャラクター性だけは海外でも浸透しているようだが、そもそもアメリカにはチャック・ノリスというセガールを優にしのぐmemeマスターがいるし、セガールの主演映画を沈黙シリーズという勝手に作った言葉でブランド化し、堂々とシリーズ物のふりをして配給し続けているような国が、ここ日本以外にあるとは思えない。事実近年のセガール映画の中には本国でビデオが発売されるよりも前に映画が日本で公開されるという謎な逆転現象まで起きており、セガール映画にとって日本という存在がますます重要度を増していることを感じさせる。

こうした本国では90年代末に坂の下まで転がり落ち、以降20年に渡ってビデオスルー俳優であり続けるセガールが、ここ日本でだけ長きにわたる支持と人気を得られてきた理由は一体どこにあるのだろうか?それはやはり、「沈黙シリーズ」というネーミングにあるような気がする。「座頭市」や「寅さん」もそうだが、長く続いているシリーズというのはそれだけで観る者に一定の安心感を与えさせる。それは『スピーシーズ2』や『プレデター2』のような、3が作られてないけど大丈夫?みたいな不安を感じさせない。『ターミネーター』もシリーズごとにタイトルが違えば誰も全てみようとは思わなかっただろう。同じ設定で違うロボットのデザインでいくらでもあのような話を作ることはできると思うが、それをあえてアーノルド・シュワルツェネッガーという俳優とあのデザインを使い続けてやることによって、多少彼の老化でアクションが地味なことになっても、2017年の今見てあのデザインのロボがさらに別のロボを動かして攻撃をしかけてきたりする意味がわからない、というかなしい気持ちに包まれても、ターミネーターだから、という理由でとりあえず劇場に足を運ぶ人から利益を得ることができる。『スターウォーズ』のローグワンも、なぜ作られたのかきっと永遠にわからない『インデペンデンス・デイ2』も大方この安心感にすべてを投げている。沈黙シリーズもそうである。なぜセガール以外の映画スターが坂の下を転がり落ち、セガールだけが途中で止まれたかというと、沈黙シリーズという日本で勝手に作られたブランドが、その安心感で観客を掴み続けたからである。ヴァンダムも実は非常にコンスタンスに映画を作り続けていて、『キックボクサー』のリブートや、『ユニバーサル・ソルジャー』の続編を何本も作っている。しかしそれがセガールほどの安定感を持って受け入れられないのは、やはりその1本1本が「有名映画の低予算の続編」にしか見られず、そんな映画に出続けているヴァン・ダムが落ち目な映画俳優にしか見られないからで、その段階を90年代の全盛期、『沈黙の要塞』から『沈黙の断崖』に至るあたりですでに通過したセガールにとっては、その後の作品はいくら低予算になりアクションがしょぼくなっても、「セガールの映画だから」「沈黙シリーズだから」という不滅の安心感によってすんなり受け入れられるものになっている。沈黙シリーズはそもそも(最初に何本かハリウッド超大作級の作品が作られはしたが)、セガールが落ち目になった瞬間、シリーズとして成立したと言っても良い。これがもし、出演作品すべてに『沈黙の戦艦』以前の作品のように1本ずつ味気ないカタカナに直しただけのような邦題がつけられていたとしたら、セガールが今のような安定感を持って受け入れられていたことは決してなかっただろう。それだけシリーズ、という概念には安定感と安心感があるのである。

そして内容もシリーズという概念に安定感と安心感を与える。セガールの沈黙シリーズにおいて、実は正式な続編は1作目の『沈黙の戦艦』と、『暴走特急』という沈黙シリーズの名前がついていない別作品だけである。これ以外に「沈黙」と名につく作品が27作品(TVシリーズの各話についたサブタイトルも含めると40作品)作られているが、どれも設定が違い、正式な続編ではない。というよりそもそも、セガールの出演作品に沈黙の名前をつける、という謎ノルマを配給会社が持っているだけで、続編だと宣伝されたことはおそらくないと思われる。この出演作品に「沈黙」をつけるかつけないかはおそらく無作為で、特に法則などはないと思われるが、2001年にジョエル・シルバープロデュースで公開された映画『DENGEKI 電撃』以降はしばらく『雷神 Raijin』『一撃 ICHIGEKI』『弾突 DANTOTSU』などの2字熟語+ローマ字読みのパターンの邦題がつけられていたこともあった。これは『DENGEKI 電撃』のセガールのキャラ作りがそれまで定番だった髷を切り、さらにちょっと痩せてスリムな体型になる、というキャラクターチェンジ要素が多く含まれていたために、配給会社がさすがに沈黙シリーズではまずいと判断したのだと思われる。同様の判断があったと思わせる事例は他にもあって、『イントゥ・ザ・サン』(2005年)は日本を舞台にしたキル・ビル的雰囲気のあるアクション映画ということもあってか、セガール映画にはかなり珍しく原題のカタカナ読みがそのまま邦題となっている。また、『沈黙の戦艦』以前の作品は全て原題→カタカナのようなシンプルな邦題が多い。しかし内容的にこれらの「沈黙シリーズ」「2字熟語+ローマ字読み」「原題→カタカナ」の作品に大きな違いがあるわけではなく、基本的にセガール映画のプロットは1作目の『刑事ニコ/法の死角』から一切変更はない。刑事ニコが88年の作品だから、実に30年近くセガールはそのプロットだけで疾走しているということになる。

おそらくネットを少し調べてもらえばセガール映画のマンネリ感、一辺倒感についてネタ的に解説にした楽しい記事はいくらでも見つかると思うので、ここではその概略だけを書いておくと、まず大抵の場合、セガールは元特殊部隊の隊員で、その立場を隠して生活している。最近ではのっけから特殊部隊の隊長をしている現役バリバリの兵士、という役も少なくないが、コンセプト的にはだいたい『コマンドー』のシュワルツェネッガーと同じであり、そんなセガールが何かしらの事件(テロか殺人)に巻き込まれることでストーリーは始まる。あとは敵を壊滅させてハッピーエンドというくだりも『コマンドー』と同じなのだが、その壊滅させるくだりに他のアクション映画にはない特徴があって、とにかくセガールは傷つかないし、敵をベルトコンベア作業のように一方通行的に壊滅していくのである。その一方通行感と圧倒的な強さがセガール映画の魅力であり、どんな映画でも見ていくうちに敵がセガールに何発ダメージを入れられたか?が鑑賞のポイントになってくる。驚くべきはこの圧倒的な強さというコンセプトが1作目の『刑事ニコ』から片時もブレていないことで、『沈黙の戦艦』をはじめとする沈黙シリーズでも一切ここだけにはブレがない。時々顔から鼻血を出したり、肩を撃たれたりしてしまうこともあるが、演技ができないのか、基本的にダメージが通ったという描写は皆無である。そしてそのアクションシーン中に見られるセガールの動きもかなり独創的で、一般にセガール拳と呼ばれる、彼が7段を持っている合気道の動きでは絶対ないということしかわからない謎の中国風拳法や、銃を必ず片手で斜め水平にして持つという奇妙なグリップの握り方など、挙げ出せば枚挙にいとまがない。そしてそういう共通点がどの映画でも必ず見られるために、セガール映画はたとえ一編一編が本来別々の作品であったとしても、沈黙シリーズという言葉によって一種のパラレルワールド的世界観の拡がりとして観ていくことができるのである。一編一編のセガール映画を別の時間軸、世界線だとした場合、30本近い沈黙シリーズとそこに登場するセガールがまた違う一本の別の作品として見えてくることがある。言ってしまえばセガール映画とは制作された本数に分割された約”2時間×制作された本数”時間ある一本の大長編映画ともとれる。だから細切れにされたほかの落ち目なアクションスターの作品と違い、沈黙シリーズはまだ、それが作られ続ける限り見終わった人間が一人もいない作品なのである。だからセガールファンという固有のファンが根強く作品を支持しているのだし、単館であれ日本で劇場公開され続ける。きっとそれは究極スティーブン・セガールという俳優の魅力ですらなく、むしろ宇宙世紀のガンダムを全部見るまではガンダムを見た気になれないような、ワンピースを87巻から読み始められないような、そういう何か作品と向き合った時に受け手側に生じる不思議な感覚のおかげなのだと思う。それが”沈黙シリーズ”という言葉に集約されている。そして『大菩薩峠』や『グイン・サーガ』と違って、セガールが映画に出れなくなった瞬間、最後の主演作品が即完結作品となる。決して未完に終わることはないが、出る限りは未完であり続ける、そしてその実態は続きものでもなんでもないバラバラの作品の集合体、監督も全員違うし、何より続き物である要素を担っているのは日本の配給会社の企画部だけ。こんな不思議なシリーズものを僕はほかに知らない。何か特定のものに番号をつけ整頓することで、それが1つの巨大な塊に見える。そこにあるのはただ、最初は「次のも沈黙の◯◯でいっか。」的な流れ作業だったのかもしれない(戦艦→要塞だから絶対そう)。でもそういうふとしたひらめきが、1人の映画俳優を長年活躍させたりする。そんな行き当たりばったりな、適当に組んだジェンガのような魅力が沈黙シリーズには溢れている。

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空想で0から漫画を描く過程「青のりしめじ」の場合

青のりしめじプロフィール
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京都精華大学/漫画学部卒
月刊タニシ連載作品『最強巻貝伝説』作画担当。
特撮ギター研究所、CRITERION FREAKのライター担当。
The Fallと変な音楽のファン。
何かありましたらお気軽にご連絡ください。→tukamal1056@gmail.com
japanese manga artist, illustrator, Writer.

ホームページ: http://www.aonorishimeji.com/
contact: tukamal1056@gmail.com

twitter: https://twitter.com/tukamal1056
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漫画のアイデアが閃く瞬間は人それぞれである。僕は日常何かしらいいなと思うフレーズに出会ったり閃いたりした時は、iphoneのメモ帳機能にぱたぱたと打って記録しておくことにしている。それは突拍子もなく誰か登場人物の長いセリフだったり、そういう一場面だったり、直接引用すると「レイジ・みのもんた」(おそらくレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンからきている)といった風のあとから見ると意味が全くわからない単なる文字の羅列(「MCなめろう食べ太郎」とか)だったりするが、そういうものを延々蓄積していくうちにふと瞬間にパズルが解けるみたいにタイトルがドーンと浮かんだり、この文字からだったらストーリーが作れるな、という呪文のようなフレーズに出会ったりする。あるいは”ティッシュ”や”養命酒”といった日常にあるものを組み合わせて、なんとなく「AとBが出てくる話」という風にストーリーに持って行くこともある。けれどもよっぽどジャンルを限定されたりする時以外は閃きだとか、ある思いついたシーンから演繹的にその時系列を発展させていくことでストーリーという話の流れを作っていくことが多い。また至極まっとうに、「◯◯のような人を描きたい」というところからストーリーを作っていくこともある。そういう時は図書館で本を借りて読むような取材もする。

僕は普段どういうわけか普通に街を歩いているだけなのに変な人や、変なことが起こっている瞬間に出くわすことが人より多いようで、友達からそういう人の噂話を聞くことも多い。そういう変な人の存在や噂もかなり話のネタになっていて、世の中にはこういう人もいるのかといつも驚かされる。電車の中で横に座った人が延々携帯で長電話して爆笑しているという些細なものから、三条大橋の橋げたから立ちションしているブルーシーターのおじさんの描く放物線、玄関先で「黄色(?)が!!黄色がそこらじゅうにあるやないか!!(意味不明)」と怒鳴っているおばさんまで、ほぼ毎週変な人に出くわしている。そういう人たちに同情の思いがあるわけではないが、そういう人たちから得たエッセンスのようなものを漫画に出したり素材として使っていくのは非常に楽しく、ついついそういうシーンを思いついてしまう。

とりあえずこの文章は『空想で0から漫画を描く過程』というタイトルなので、せっかくなので上に引用したメモのフレーズ、「レイジ・みのもんた」をそのままタイトルとして使って、「レイジ・みのもんた」という漫画を空想で描いていきたいと思う。

漫画を描く際に先にストーリーを完全に作ってからネームに入るタイプの人と、ネームを描きながらストーリーを考えるタイプと2つのパターンが存在すると思うが、僕は後者である。しかしながら文章でそれを同時にするわけにはいかないので、ここからはネームを描きながらストーリーを考えているていで、文章を書きながら「レイジ・みのもんた」のストーリーを考えていきたいと思う。実際の漫画制作ではこの文章に書いている部分を全てネームで描いているので、文章が書き終わった頃に実際ではネームができている、という形になる。

まず「レイジ・みのもんた」というタイトルを思いついた時点で、主人公は極めてみのもんたに近い何かである。おそらくTVの司会者で、午後は◯◯、みたいな番組の司会をしている。本名は御法川◯男で、水道会社の社長もしているが思いっきりブラック企業である。顔は色黒でいつもアシスタントの女性にセクハラをしては邪険に扱われている。二日酔いでテレビに出てはひとしきり偉そうなことをいうが、画面からは偉そうなことを言っているという印象しか伝わってこない。語彙も貧弱、しかしそれ故に同程度の語彙しかもたないおじさんおばさんから話がわかりやすいということで絶大な支持を集めているお昼の顔である。普通こういう人間ならめったなことで本気の「レイジ(Rage=怒り)」にとらわれることはないが、この漫画の主人公のみのもんたは怒っている。ということは彼はみのもんたでもなんでもない赤の他人である可能性がある。この時点でストーリーは次のどちらかのパターンだと思われる。このように選択肢をいくらか出してそこから選んでいくという作り方が話を作る上では一番簡単にストーリーができていくように思う。

1. 主人公はみのもんたである。みのもんたがレイジしてるストーリー。
2. 主人公はみのもんたではない。”レイジ・みのもんた”という人物がおり、彼にまつわるストーリーである。

この時点での個人的な印象は2の方が作りやすそうだが先が見えているな、という印象である。このストーリーを2だとした場合、おそらくレイジ・みのもんたという人物は自分をみのもんただと思っているか、周りからみのもんたとあだ名される公園のネバーエンディングキャンパーである。年恰好もみのもんたに近く、カセットコンロとフライパンを持っていて、冬になると公園の水道水をフライパンで温めてはそこにワンカップを入れ、それを周りのキャンパーに高値で売りつけて商売をしている皆の嫌われ者である。些細なことですぐ怒り、小さい盗みを何度も働くので人間的な信用はない。そんなある日彼が公園に帰ってくると彼の紙製の家がぐしゃぐしゃにされた上、カセットコンロがフライパンで滅多打ちにされどちらもボコボコに壊れていた。食事を作る手段を奪われた彼はなんとかお恵みをもらおうと周りのキャンパーに頼んで廻るが、誰も食事を恵んでくれない。そのうち不良中学生グループが彼のもとにやってきて、ベンチでしょんぼりしている彼を見て笑う。それにカチンときた彼は中学生に罵声を浴びせるが、よく見るとその中学生グループはどう考えても手をだしてはいけないような不穏な空気をビンビンと発するヤバそうな子供達で、さらによく見ると全員片手にバットを持っている。必死に謝るも噴水のところまで引きずって行かれたみのもんたはそこで水中土下座を強要され、噴水の中に膝をつき、ゴボゴボと顔までつかって必死に土下座してみせるが、不良グループは彼が水につかったことによって漂ってきた悪臭に激怒し、バットを縦に持ち突き刺すように彼の後頭部に叩きつける。こうして土下座したまま動かなくなった彼をおいて不良グループは全員噴水に浮かぶ彼の頭におしっこをかけたあと意気揚々と立ち去っていく。その晩彼の家は他のキャンパーによって完全に荒らされ、次の日奇跡的に生きていた彼が目を覚ました時にはもう何もかも終わっていて、彼自身噴水に浸かりすぎたことによって体が低体温症になっており、脳も後頭部を破壊されたことにより意識と機能の一部を失っており、彼は「どうぶつ奇想天外!」と叫びながら服を脱ぎ捨て公園を飛び出し、飛び出してきたトラックにはねられそのまま天国に向かう。最後は神様の前で自分の人生を不幸にした(と彼が勝手に思っている)神様に彼が怒鳴り散らしているシーンで終了。ざっと思いついたあらすじを書いてみたが、あまりおもしろくない話になりそうである。そして2でこれということは1もそんなおもしろい話にはなりそうにない。なんといってもみのもんた、というフレーズが既に旬を過ぎていて(僕の中では全然過ぎていないが)、今更名前を出したところで誰も覚えていなさそうな感じがするし、人物にも絶望的に魅力がない。だからこのタイトルでストーリーを作るなら、みのもんたらしさを保ちつつも、レイジという部分にもっと味付けがあった方がおもしろいものを作れるのではないだろうか。

と、ここでストーリーの方向性に更なる分岐点が見出される。この場合ストーリーは、

1. レイジ・みのもんたとは何なのか?という部分がキモになる/レイジ・みのもんたという存在が主人公の作品
2. みのもんたがレイジする状態がおもしろい/みのもんたのレイジの描き方がおもしろい作品

のどちらの要素を足した方がよりおもしろくなるか、ということである。ここで真面目に

3. お昼の情報番組で頑張るベテラン司会者が徐々に狂気に飲み込まれていくサイコサスペンス

という要素を組み入れることも可能だが、そういうストーリーにしてしまった場合、ストーリーが真面目になるのでタイトルのパンチが弱くなってしまう。ページ数もかさみそうである。と、考えるとやはりみのもんたは実際の本人ではなく、それっぽい架空の人物、にした方がタイトルに華が出るような気がする。つまり架空のみのもんたっぽい人がただキレてるだけ、というタイトルの作品である。それなら架空のみのもんたはアレっぽい人であればあるほどおもしろく、本物のようにTVで司会業をしてればしてるほどつまらなくなる。ということはやはり、架空のみのもんた氏は倉庫で仕分けのバイトをしている50代フリーターか、ネバーエンディングキャンパー、それかよくわからない街で見かける妖精のようなおじさん、であった方がおもしろい。それらの要素をすべて混ぜて、ネバーエンディングキャンパー風の、どこで何をしてるかわからないが、倉庫の仕分けのバイトをしている、仕事のできない御法川◯男風のルックスのおじさん、ということにしてみよう。

主人公のキャラ付けが決まったので、次は舞台の設定である。倉庫で仕分けのバイトをしているので、舞台は倉庫で、おじさんは派遣のアルバイターである。派遣会社の社員は全員おじさんより30歳くらい若い20代で、社長はブイブイいわせてる系の新庄系のファッションをした眼光からクズであることがストレートに伝わってくるタイプのガングロのチャラ男である。おじさんは彼に直接面接を受けたが、その時からずっと彼に対して猛烈な嫉妬心を抱いており、いつか一発逆転してぎゃふんと言わせてやる!と思っている。おじさんはそんな自分の年齢でまだそんなことが、時給850円のバイト風情でもできると思ってるくせに、宝くじを買うということすらしない、それ系の人特有のヤバさを存分に併せ持ってる系の人物である。誰にも聞こえない音量でいつも独り言をブツブツ言っている。当然メンタリティも幼稚で、バイト仲間も全員年下の18くらいの若者か、自分と同系統だがまだ自分より10歳くらい若い、無口で髪ボサボサで変な腹の出方をしている顔のやつれたデブしかいない。そんな環境で誰とも喋らず、話しかけてももらえず、薄暗い倉庫の中でベルトコンベアに乗って流れてくるダンボールに手元の商品を1つずつ詰め込んでいくのがおじさんの仕事である。その流通倉庫はおじさんの最寄駅から車で10分ほどの距離にあり、毎日派遣会社の社員がおじさんと何人かの同シフトのバイトを乗せ送迎している。その送迎が終わると同シフトのバイトが各派遣会社ごとに集められ、その日の軽い朝礼のような引き継ぎと伝達が行われ、その後倉庫の各部門にバイトが仕分けられていく。仕事のできる若いバイトの子は日によって忙しい部門をまかされたりして様々な部門で働けるが、仕事のできないおじさんは最初からずっと一つの部門で働かされており、誰も口に出しては言わないが、全員の仕事を止めているクズとしてべっ視されつつ、内心どこかでこいつがもっと仕事したら俺たちも忙しくなるから、こいつにはこのままダラダラ仕事して社員さんのこいつへの評価だけがガンガン下がりつつ俺たちは楽できる環境が保たれていてほしいなー、と思われている。だから他の仕事のできるバイトっ子たちにとっておじさんと一緒の部門になる日は(おじさんという存在に目をつぶれば)ある意味当たりでありご褒美でもあった。そしておじさんはそんな引き継ぎの際だけ顔を見る、バイトリーダーの40代中盤の主婦と思われるおばさんのことが気になっていた。おばさんが唯一の女性だということもあるが、バイト仲間の顔のやつれたデブがそのおばさんと少し長めの立ち話をしているのを見て、自分よりクズだと思っていた若人が自分より流暢に女性と会話しているのを見て許せなくなり、その意識がおばさんに移ってそれを恋心と自分で錯覚してしまったからである。
このような環境でずっとバイトし続けているおじさん、というのを状況として設定に取り入れたいと思う。

先の公園の話とほとんど変わらないと言ってもいいようなストーリーになりそうな設定だが、バイトとかそういう日常的な停滞感というのはストーリーから起伏を奪い、またある種の雰囲気を造成するできる優れものである。だからこういう状況というのは公園とかブルーシーターといった少し特殊な、何がどうなっているのかいまいち想像のつかない世界観を勘で描こうとするよりも自然と雰囲気が出せるような気がする。あとは過去の人生で遭遇した彼らのような人に対する同情心というか、ifの部分でどういう想像がこの状況からできていくか、を組み立てていくだけである。

僕がここまで書いてきてこのおじさんについて気になったことは、おじさんがどうしてこういった人生を送ることになったかという点、そしておじさんはこのままこの人生を続けていきたいと思っているのか、という点の2つである。おじさんが一人暮らしかどうかも気になる。しかしもしおじさんが実家暮らしなら、家に帰って偉そうにできる環境がある以上、いつでも仕事も辞められるわけだし、そこまでおじさんの中で怒りや憎しみが吹きだまって噴出する、ということもなさそうである。ということはやはりおじさんは一人暮らしで、そして何か人生の目標なりそういったものをもってこれまで生きてきたけれど、結果としてこういう状況になっていることを、まだこれは結果じゃない、どこかへ向かう道の途中なんだと自らに思い込ませて、あるいはそれすらなくただぼんやり生きている、そしてそれによって現実との摩擦で一層心が歪んでしまっているかわいそうなおじさん、ということにしたほうがよさそうである。

ここでおじさんの目標と「レイジ・みのもんた」というタイトルがかぶる。
なんとなくここで、このおじさんはみのもんたを目指してタレント活動をしている//してるつもり、のおじさんか、かつてみのもんたのそっくりさんとして一世を風靡したが、今は(当のみのもんたが消えたせいで)仕事を失ったそっくり芸人、という設定が頭に浮かぶ。あるいは単純にずっと御法川に似てると言われいじられてきた、というのもいいだろう。おじさんは日頃から「おい御法川!」などと言われ同僚からからかわれ、肩身の狭い毎日を送っていた。合コンに呼ばれても部屋に入るなり女の子に御法川入ってきたんですけどーとか言って笑われひと笑い取れれば即帰らされるネタ要員。こうして生きて行くうちにおじさんの心は歪みに歪み、ついには自分の人生も見失って(あるいは人のせいにするのに落ち着いて)流通倉庫のピッキングのバイトをする人形になってしまった。それだけならブルースでもないただのかなしい話だが、おじさんに何か色を添えることによってより一層おじさんをみじめに見せることができるなら、ぜひそういうアイデアを閃きたいものである。こうして思考がおじさんの周りをぐるぐると回り始める。

1. おじさんはみのもんたのモノマネタレントを目指してる50歳フリーター
2. おじさんはかつてモノマネタレントとして2つくらいのTV番組に出たことがある50歳フリーター
3. おじさんはみのもんたと顔が似ていることで皆からいじめられ、そのせいで心が歪んでしまった50歳フリーター
4. おじさんは自分はみのもんたと顔が似ている、だから皆にいじめられるんだと一人合点しているが、実際は別にそういうことではない、とにかくただの50歳フリーター
5. おじさんは昔一度だけみのもんたに似てると言われたことがあって、それ以来自分もモノマネタレントになれば一攫千金なのにチャンスが回ってこないなと思い、毎週日曜になると渋谷の街をウロウロしてスカウトされるのを待っている、とにかくただの50歳フリーター

ざっと思いついたものを5つほど書いてみたが、この中で選ぶなら5だろうか。5を設定として取り入れることで、ストーリーにも最低一度は場面転換の機会がやってくることとなり、起承転結を作りやすくなる。さらに渋谷という街中を設定することによって、おじさんが暴れた時おもしろいことになりそうだなーという感じを出すことができる。この感じを出すためには倉庫と渋谷の場面を最低2セットは繰り返さなければならない。と考えたところで「おじさんが暴れる」のが話のクライマックスとして固まってくる。

だんだんストーリーが煮詰まってきた。

このストーリーの基本的なあらすじは、

1. 50歳のいろいろきてるフリーターのおじさん(生涯で一度だけ御法川法男に似てると言われたことがあり、以来それを引きずって生きている。夢はモノマネタレント)が、
2. モノマネタレントに憧れスカウト待ちをしながら倉庫と渋谷を行き来する生活を送るが、
3. なんだかんだでブチギレて
4. すべてがオシャカになる(?)

である。この時点で1と2はあとは細部の演出で膨らませれば良い。ここで次に考える必要があるのはまだ骨組みだけであやふやな3と4である。まずエンディングとしてどういったものが一番良いのか、「レイジ・みのもんた」(別にいいエンディングが決まればこの言葉がタイトルである必要もないのだが)というフレーズにハマるのか、ということから考えていこう。

僕はシンプルに渋谷の交番でおまわりさんに、「で、あんた誰なの?」ときかれ、いろいろあって血まみれになった顔面でにやりと笑いながら、「みのもんたです。」と言ってるおじさんのアップ顔が頭に浮かんだ。最終ページを大小2コマとし、大きい方のコマを2コマ目に持ってきて、1コマ目で警察におじさんの方を向きながら質問をさせる。そして大きな2コマ目におじさんのアップ顔がきて終了である。今のところこれ以上ちょうどいいオチは思いつかなそうなのでここから3の部分を演繹する。

おじさんは最終ページで渋谷の交番にいるのでおそらく暴れたのは渋谷近郊である。そのきっかけはいくらか考えられるが、ここで押さえておきたいポイントはおじさんは日常的習慣的に渋谷に行っているということで、だからおじさんは渋谷でいくら若いひとにバカにされても、その程度で即ブチ切れるということはないだろうということ、バカにされる程度はしょっちゅう受けているだろう、ということである。何か先にきっかけになったものがあって、それが渋谷に来たことで爆発したと考えた方が流れとして自然である。こういう自然さも考えると話が浮かぶきっかけになるので詰まった時はそういうことを考えるようにしている。ここでイライラを抱えながら一人満員電車に揺られながら渋谷駅の出口を出るおじさんの姿が浮かぶ。おじさんは電車に乗る前からイライラを抱えていた。ではそれはいつからだろうか。

例えばここでおじさんの住んでいたアパートの立ち退き勧告が出ていた、みたいな設定をつけてもいいが、そんな長いページ数になるような話ではないので、倉庫と渋谷に続いて家までも場面として存在感を大きくしてしまうと全体のバランスが悪くなってしまう。なので立ち退き勧告というアイデアじたいはとても哀れで笑えるので採用するとして、それはイライラの加速度を上げたギアチェンジ的なもので、本当の最初の踏み込みはやはり倉庫バイトの中で起きた、ということにしてみたい。そのイライラをおじさんが一人延々増幅させ、それが渋谷で狂気となって大爆発したのである。ここでの狂気の爆発は、「いきなりおじさんがみのもんたが街ブラでロケをしているような口調で周囲のひとに話しかけたり、店に入って勝手にひとのものを食べたりした。」ということにしてみよう。そしてその口調がめちゃくちゃ似ていて、まわりのひとが「みのもんたが暴れてるぞ!!」とか騒いでいたらおもしろいだろう。それがおじさんの唯一のモノマネの発露であり同時に終わりの瞬間であった。その起爆はやはり夢を否定されたり、おじさんのダラダラとした日常を正面から否定する人間の登場、そしてその人間のド正論すぎておじさんごときではとても否定できないようなキラキラ感にあるのではないかと思う。ここでおじさんが倉庫の隅っこで、仕事のできなさを誰かに注意され、そうしてその過程で悩み相談的に自分の話を聞いてくれたその人に不意に持ち前の無防備さによって自分の思いの丈をさらけだしてしまった結果、それをあっさりと常識的に否定され、以来おじさんの脳みそでは彼の否定に対する反論が全く用意できず、同時に焼け付くような憎しみだけが募り、その結果心が爆発してしまう、というのはどうだろうか。そしてこの展開に持っていくには日ごろ何も仕事ができないと周知されているおじさんが、それでも注意の対象になってしまう程度に仕事ができなくなるもう一つのきっかけがいるだろう。それは些細なものでも構わないはずだし、おじさんは日ごろからずっと仕事ができないのだからちょっと余計に仕事ができなくなっただけでそれは十分に退場勧告に値するだろう。それはバイトリーダーとの失恋だろうか?いや、それよりも仕事ができないのろまなクズだと思っていた年下の顔のやつれたデブが、実はFxでバリバリ資産を動かす資本家(このへんはよくわからないので本編中でもふわっとさせておく)で、ただ一度失敗したためにたまたま資金集めでアルバイトをしていただけだった、というのを若いバイト仲間から聞く、というのはどうだろうか。ある日バイト先にそのデブが来なくなる。おじさんはどうせ仕事がいやになって逃げ出したのだろうと一人合点し、これだから仕事のできない軟弱者はだめなんだよ、という。吹聴してまわっていてもいいかもしれない。するとまたしばらくたった別のある日、おじさんは渋谷の書店でどうみても彼にしか見えない男が表紙にうつる『偉大なる復活劇』みたいなタイトルの投資のHow to本を見る。あるいは家で彼の出ているテレビ番組を見る。その翌朝おじさんが倉庫の食堂で一人ご飯を食べていると、後ろで仕事のできる若い学生アルバイターが尊敬の眼差しでデブのことをうわさしているのを聞く。「俺一度喫煙室で話したことあるけどあのひと実はすごいトレーダーで・・」そして話し終えた後、彼らが自分に一瞥を向けたことにおじさんは気がつく。そういえばあのジジイあの人のことかなり下に見てたよな・・俺たちもあの人のこと知らなかったから何も言わなかったけど、今となってはさぁ・・。おじさんはそこで茫然自失の状態になり、自分でも気がつかないままその時から確実におじさんの心のなかでこれまで人生の中で培ってきたみみっちいレガシーのようなものが崩れ去っていく。おじさんはもうそんな自分を修正することはできず、毎日をただ”不思議なイライラ”感、を湛えたまま生きていく。しかしその表面張力ギリギリまで水の張ったような状態はいつまでも続かず、ついには憧れのおばさんバイトリーダーにさえもおじさんは牙をむくようになる。倉庫の社員にも返事をせず、「はい」の代わりに口の中でモゴモゴと何かをいう。誰にも目を合わせない。仕事も雑になる。ついには社員のそこそこ偉い人(いつもおじさんに挨拶をしてくれた管理職の人)に面と向かって注意と説教をされるが、その際にやさしい口調で何か悩みはないのか聞かれ、自分の人生をポロポロ話すうちについみのもんたのことを言ってしまい、「君ぃ、それは無理だよ。」的なことを言われて完全に心にヒビが入る。
そしてそんなことがあった一週間が終わり最初の休日、おじさんはいつものように渋谷へ向かう電車の中でついに決壊する。電車のつり革にはフライデーの広告があって芸能ニュースが見出しで並んでいる。その中でみのもんたの名前を見つけるおじさん。その時おじさんは不意に自分がみのもんたでないことが猛烈に許せなくなり、思わず叫ぶ。「俺はみのもんたなんだ!思いっきりテレビなんだ!」。満員電車、隣の就活生とおぼしき女子大生は半分泣きそうな顔で携帯の画面を凝視してLINEを打っている。おじさんは一人自分のひざを見ながら、自分の”今、そうであってほしい自分の設定”みたいなことを延々言っている。「午後は◯◯・・」そして渋谷到着、エンディングに至る。

完成したストーリーライン:

1. 主人公、50歳一人暮らしの倉庫派遣バイター。かつて一度だけみのもんたに似てると言われたことがあり、それを生きがいに生きている。いつか誰かが自分をスカウトしてくれれば、モノマネタレントとして人生大逆転できるのに、と夢想して生きている。バイトでは仕事ができず一番仕事のできない人が行く場所で働いている。
2. 主人公は派遣会社の社長を憎んでおり、倉庫バイトの同僚のバイトリーダーの40代女性に淡い恋心を抱き、かつ彼女と一度会話しているのを目撃したことがある、顔のやつれたデブの40代男のことを憎んでいる。同僚のほとんどである大学生男子からは馬鹿にされることすらなく、人でないものとして距離を置かれている。
3. みじめなバイトの日々が続く。ある日下に見ていた40代でぶがバイトにこなくなる。次の日、渋谷でいつものようにスカウトを待っていると、おじさんはふとテレビに写るでぶの姿を見る。それはでぶがトレーダーとして再起したことを知らせるニュースだった。店頭にもでぶの顔が表紙の本が並ぶ。
4. 見下していたでぶが自分よりずっと高位の存在であることを知り、おじさんは徐々に仕事に身が入らなくなる。みかねた倉庫の社員がおじさんに説教をする。その真摯な言葉におじさんはつい、みのもんたのモノマネタレントになりたいと思って生きている、という本心を吐露する。社員は一言でそれを否定し、真面目に仕事しなさい的なことを言う。おじさん言葉を失い、心に亀裂が入る。
5. 次の週末、おじさんは電車で渋谷に向かう。車内は満員。いつの間にかずっとぶつぶつ独り言を言っていたおじさんに誰かが注意し、おじさんが爆発する。渋谷駅を降りてもおじさんの爆発は止まらず、おじさんはついに自分をみのもんたに扮して街ロケごっこを始めた。飲食店に入り、「お母さん!ラーメン!」と言ってラーメンを注文し、誰もいないテーブルの正面を向いて「おいしいねー」とか言うおじさん。そして金を払わずに店を出ようとして店主に引きとめられ、そこで「俺はみのもんただぞ!」といって暴れ出す。やがて出前から帰ってきたHIPHOP系の若者(店主の息子)にボコボコにされ警察に引き渡される。
6. 渋谷の駅前交番で事情を聞かれるおじさん。ところがもはや話しは通じず、呆れた警官に名前を聞かれたおじさんは、血まみれの顔で「みのもんたです。」と言い、にっこり笑う。

これでストーリーラインはとりあえず完成した。

あとは実際にネームを描いて様子を見るといったところだが、文章のはじめの方でも少し触れたように、実際の漫画作業としては消しゴムで1コマ消したり台詞を書き直したりして、これまで文章で長々と描いたことをほとんどネーム作業、としてやっている。どこまでアイデア出しをしてどこからネームを描いていくかはその時々だが、具体的にページ数がそんなにかさまないな、というアイデアや、少しネームを描いてみないと話しが見えてこないような話しは率先してネームから描き始める場合が多い。ある程度書き進め修正していくうちに見えてくる話もあるし、そういった単調な作業の繰り返しが自分にとってのネーム制作、ストーリー作りである。そしてある程度ネームが固まれば、最終的にそれを下書きの段階に持って行き、下書きでネームを全て原稿用紙に移した後で、細部のコマの大きさなどを整え最終確認をして、それでも問題がなさそうなら最終段階であるペン入れ作業に入る。

もっともこれはアナログ原稿で漫画を制作する場合に限ってのことで、デジタルで作業する場合はネームの段階でネームをそのまま下書きとして使用し、1コマだけを完成までペン入れするようなことが可能なので、あやふやな演出が決まらないところはとりあえず放置して他の部分を完成まで持って行き、その作業をしながらその部分のネームを考える、という場合もある。いずれにせよ自分にとってはネームを描く作業がまんがを描く作業のほとんどであり、そこでの労苦が終わればあとは全自動ペン入れ機と化すだけなので、アナログ原稿で言うところの下書き以降の工程(下書き・ペン入れ・ベタ・トーンなど)については特にこれといって書くべきことが見当たらない。ただ単純に単調に線を書き、それをなぞっていくだけである。また既にペン入れの技法などについては無数の解説書が出ており、ネットでも参照にできるWebサイトが非常に多いので、それを読んだ方が良いと思う。僕もペン入れやトーンなどでわからないことがあったらとりあえずググって、そこで出てくる方法をそのまま使うことが多い。

なおこれまで書いてきたストーリー制作法はページ数指定・ジャンル指定の全くない場合の方法で、例えばページ数が36pと限定されるのであれば、上の二択で演出・展開を決める場合によりページ数が少なくなるだろう方を選んだり、全部書いてから36pに収まるよう細部の演出を調整したりと、それはそれで様々な方法を使う。例えば1pごとに何がどこまで起きるかを順番に書いていき、それからそれをネーム(漫画のコマ割り)で書いてごちゃごちゃせずすっきりと表現できるか確認する、といった方法である。

いずれにせよまず第一に

1. ネームを作りながらでもなんでも真っ先にストーリーを完成させ、
2. あとはそれをうまく表現できるようコマ割などを調整したあとに、
3. 最後に下書き→ペン入れという仕上げの工程に入る

という点は変わりはない。

下書きとペン入れというのはあくまで版下作業であり、極論を言うと「”全部塗ったらマンガになるぬり絵”をぬる工程」みたいなものである。だからおおもとの「ぬり絵」の部分であるストーリー・ネームがつまらないと漫画もすべて退屈なものになってしまう。
圧倒的な画力の高さでそれをだまらせてしまうような漫画(女の子がかわいければいい、風景とか細部の描写まで細かく描き込んでるのがいい、とか)もあるが、僕は圧倒的に画力が低いのでそのような漫画を描くことができない。なので仕方なくこういった漫画の作り方で漫画を描いている。

実際賞を目指して漫画を描く場合は、こうして描き始める前に送りたい賞の応募要項を確認しておくことも非常に重要である。大抵の賞の応募要項はページ数や、「デジタルの場合はコピーを添付してCDーRで送ってください」といった指定があるのみで、およそ16p以上40p未満の漫画を描いていれば大抵の賞に見てもらえるとは思うが(※個人的な感想)、ごく稀に漫画のテーマを指定してくるものや、デジタルorアナログ原稿のどちらかが不可の賞もある。逆に既出の作品や出版したオリジナルの同人誌、pixivに投稿した作品でもURLだけで応募を受け付けるような賞もあるので、いろんな意味で漫画賞は常にチェックしておいて損はないものである。マンナビというサイトが様々な賞を期間を絞って検索することができるので非常にオススメである。

僕は「漫画家を目指して漫画を描く」という典型的な雑誌連載目指し人間なので、未だ何かアニメやゲームなどの同人誌を描いたことはなく、そちらのノウハウもないが、同人のストーリーの場合でもこれまで書いてきたネームの作り方を使って特に問題なくストーリーを作ることができると思う。例えば今流行りのけものフレンズで、サーバルちゃんとサーバルちゃんを狩りにきたスティーブン・セガールがリアル狩りごっこをする同人誌などは非常におもしろそうである。(でもないか・・・。)

漫画を描く過程を文章で伝えるのは非常に難しいことである。問題なのはネームを描くこともストーリーを描くことも、文章を書くことも絵を描くことも、漫画を描く、という行為の中では全部同時に起こってしまい、その中のどれか1つをとって定点観測するような書き方ができないからである。この文章は漫画を描くことを文章で伝えることを目指して書いたものだが、実際これまで文章で書いてきた「レイジ・みのもんた」はこのままプロットとして漫画に流用でき、ネームの元として使えるものである。だからこの文章を書く行為も、漫画という完成を目指すなら、漫画を描く、という工程の1つであったことになる。

この文章では漫画を描くこと=ネームを描くこととし、さらにネームを描くこと=ストーリーを描くこととして、自分がストーリーを作る流れとして文章を書いた。そのため制作の過程を文章で書くというよりは、その間の自分の思考の流れを文章にしたようなものになってしまって、実際のネームを描く作業の文章化からは少し外れている。僕自身は漫画を描く時、特にコマ割りに関して考えていることは、全体的なバランスよりも、次のシーンを描く際に、紙の上にはどれくらいスペースが残っているか、ということである。ストーリーを漫画のコマで表現するということは、ストーリーを各コマに配分して、いわば一度バラバラしたパズルを再び組み立てるか、あるいはケーキの上に少しずつクリームでデコレーションしていく工程に近い。つまり1コマ分ストーリーを紙の上に配置したら、その1枚の紙の上に配置できる残りのストーリーの面積は、実際の紙の残り面積に等しいものとなる。そして1コマ描くたびに減っていく原稿の残り面積と、次に絞りたいストーリーの面積を照らし合わせて全体のバランスが悪くならないように紙の上に次のストーリー分のコマを広げる、この連続が自分にとってのネーム作りである。

16pの漫画も32pの漫画も、32pで表現しているからその長さなだけであって、もともとは1枚の紙にすべてコマを並べることはできるのである。漫画を32pにしたり、1pのコマ数を数コマにしているのはそれを読む人間の見やすさ、という体感的な問題であり、この点が漫画と他の紙媒体メディアで違うのは、小説は初版の文字のフォントが小さくても改版の際にいくらでも文字を大きくして読みやすくすることができるが、漫画は初版の、最初の原稿にペン入れした際の、ネームに書いた際のコマの大きさが未来永劫残り続ける、ということである。だから漫画のコマ割りで自分が考えているのは単純に大きい方が見やすい、ということと一度描いてしまうと取り返しのつかないものだから気をつける、ということである。そうしてコマを各ページに見やすく配分した後、最後に全体のコマ割りやコマの大きさ、視線で追った際の流れのスムーズさなどを調節するようにしている。小説はページを1枚めくった時最初にくる文字が版ごとに変わっても大きな問題はないが、漫画はその部分にも配慮する必要が多分にあるからである。(漫画はその部分の配慮で魅せるヒョーゲンだとも言える。)

また漫画のキャラクター設定についてであるが、僕はこれまで文章で書いてきた通り、設定はニュアンスだけ決めて、あとはセリフとか全部考えた後に、「こんなこと言うやつはこんなルックス」と偏見で見た目を決めていくといった作り方をしている。また、普段からプロトタイプ的な、手塚治虫の漫画に何度も出てくる、出てくるたびに違った設定になっている同じ顔の登場人物(ロックとかヒゲオヤジとかなんとかランプとか)のような、俳優的なキャラクターを何人か用意して代用的に彼らを使ってネームを描いており、そうしてざっくりとネームを描いた後に、一人一人のキャラクターについて、そこで使ったプロトタイプ的なキャラを元にしてキャラクターを作っていく。上に書いたおじさん、にもプロトタイプ的なキャラはいるし、不良中学生とかバイトの大学生とかも同じようなキャラがいる。そしてそれをそのまま使っても問題なさそうならプロトタイプ的なキャラクターをそのまま本番(?)でも使うことが大半である。だから僕はあまりキャラクターの設定を0から、ストーリーを作る前の段階で作るといった漫画作りはあまりしたことがない。ファンタジー漫画など、マガジンなどの賞に送る時は一度ストーリーを作る前に設定を考えようとして作ってみたこともあったが、いずれにせよ先に人物ができるとストーリーの方がそれにつられて歪む気がして、あまりその方法はうまく使えたためしがない。だからその点についてはあまり参考にならない制作方法だと思う。ジョジョの荒木飛呂彦が1人のキャラクターについて1つ履歴書を作ると言っていたのを真似したこともあったが、こんなの考えても意味ないだろと思ってすぐやめてしまった。この世にいない人の人生なんてあってもなくても同じだと思う。

最後に自分の漫画作りの流れをざっくりとまとめてみる。

1. フレーズや発想などからストーリーラインを作っていく。
2. ネームを描きながら、あるいは文章で、その時その時の一番良いだろうという方法でストーリーラインをひたすら作る。(この時セリフも決める。)
3. ストーリーラインが決まり、セリフも要所要所のものが決まったら、一度ネームとして清書する。(あるいはここまで全部ネーム作業としてやる。)
4. 原稿用紙に下書き。ネームを1つ1つ確認しながら原稿用紙に移して描き、必要だったらその都度修正する。
5. ペン入れと仕上げ。いたって普通。ふきだしを描き、人物に線を入れ、手前のものから順番に線を入れていく。線を入れ終わればベタ、トーン。
6. なおデジタル作画の場合は4−6を同時に行うこともある。下書き・ネームなしでそのまま描くこともある。

自分にとってやはり漫画作りの山はネームの段階にある。それさえできればあとはすべて仕上げ作業のようなものである。なのでその過程ばかりに絞った独り言のような文章になってしまったが、それでも誰かの参考になればうれしいです。

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