映画と音楽『ミッション・インポッシブル2』

『ミッション・インポッシブル2』は、あまたあるクソ映画の中でも、自分の中で特に思い出深い作品の1つだ。公開は2000年。監督はジョン・ウー。僕は小学5年生。この時期のジョン・ウーはまだ『レッド・クリフ』も『ウインドトーカーズ』も撮っていない(両方とも死ぬほど駄作・・)、「『ブロークン・アロー』と『フェイス/オフ』の監督」という、アクション映画界でほぼ無敵と言っていいポテンシャルを持っていたので、おそらく観たのは映画館ではなくレンタルビデオだったと思うが、死ぬほど期待して再生ボタンを押したのだと思う。そして映画が始まると同時に、なぜか主人公のイーサン・ハントは長髪になっていて、意味もなく岩山もフリークライミングし、サングラスを画面のこちら側に投げると爆発、同時にOPが始まるという神演出。内容のあまりのポンコツさに小学生の僕は一気に心を掴まれ、それ以来まるでトラウマのように、こういう映画のこういう部分でしか興味と感動を覚えることのできない人間になってしまった。強烈にダメなものはある種オーパーツな魅力がある。そういうものは一見単純にダメなのだが、「あれっ?」と二度見してしまったが最後、そこにある只者ではない闇に飲み込まれる。1と1を足し算を使わずに2にするような無駄な労力、『ミッション・インポッシブル2』は間違いなくそういうタイプの映画で、僕はもう何十回もこの映画を観ているはずなのに、いまだにこの映画のあらすじを覚えられない。脚本(そういうものを作っていればの話だが)は完全に常軌を逸していて、線と点が繋がらずまるで落書きのように放置されている。上の方で、「映画が始まるとイーサン・ハントがまずフリークライミングをしていて〜」と書いたが、よくよく思い出してみればその前になんか飛行機で偽物が科学者からウィルスを奪う的なシーンもあった気がする。しかしそんなことを細かく思い出して書かなくてはいけないほど、この映画は価値のある作品ではないし、細かく思い出せば思い出すほど、こんなくだらない映画を細部まで記憶している自分が情けなくなる。不必要なアンソニー・ホプキンスのカメオ出演。ヒロインとの無駄に長い退屈な(しかも演出的には全くやる必要がない)カーチェイス。テキトーすぎるにもほどがあるデザインのウィルス注射器、きっと何十人もの俳優が役を断ったからこの配役になったのだろうと思われる、強いのか弱いのかわからない敵ボス。そんな敵ボスとイーサン、ヒロインの3人をめぐる小学生が考えたような愛憎劇(だから小学生の僕にもわかったのだと思う)。とにかく怒涛の勢いでポンコツが畳み掛けられていく。そして堆積したポンコツが腐り異臭を発し始めた頃、クライマックスでは、ジョン・ウー映画恒例の、でも誰も何とも思っていない、特にハリウッドの映画ファンは全員やめてほしいと願っている、恒例の鳩を飛ばす行事があり、そして2000年代の映画史に残る究極のポンコツアクションシーンの1つである、有名なバイクチェイスシーンが始まる。走行中のバイクの脇にかがみ敵の銃弾を避け、後ろに向かって銃を撃ちそれがなぜかしれっとあたり、最後はどういうわけか仮面ライダーの後半に出てきそうな砂場で大の大人二人がバイクを無駄に空中衝突させ破壊したあと猫の喧嘩のような乱闘を始める。全シーン全カット、そのすべてのあまりの無内容さに、この文章を書くために映画を見返しながら、僕は心の中で泣きそうになった。最終的に頭がどうかなりそうだったので音を消して見たが、それでもこの映画の内容は十分に僕を混乱させた。
それにしても今この『ミッション・インポッシブル2』を観て思うのは、2でここまでエラいことになったシリーズが、よくこの後3や『ゴースト・プロトコル』、『ローグ・ネイション』と続けていけたな、ということである。もちろんこの(こんな)映画がバカ売れしたからこそトム・クルーズも次作に意欲的になったのだろうし客も入ったのだろうが、下手すればケビン・コスナーの『ウォーター・ワールド』や『ポストマン』になってもおかしくなかった作品であるし、完成度だけを取り上げるなら今なら普通に黒歴史になって良いレベルである。シリーズを通して見てもこの作品のイーサンの脳みそにクソ詰まってそうなテキトーさは常軌を逸しているし、見れば見るほどトム・クルーズがEXILEかTRFのメンバーのように見えてくる。ヒロインもこの人この映画以外で全然見ないけど今何やってんだろ、レベルの人だし、どう考えても今真っさらの状態で観たときに、この映画は良いところが全くないのである。しかし、にも関わらず、この映画の全米の興行収入は215億円に達していて(Wiki情報)、2017年現在5作が作られている同シリーズの中で、制作からもう17年経つというのに、未だに1位の記録を維持している。つまり単純に考えて、この作品が一番アメリカで見られた”M:I”なのだ。この映画のどこかが、少なくとも全米という市場において、ほかの4作すべてに勝っていて、観客に受け入れられたのである。このシンプルな事実が僕をさらなる混乱へと落とし込む。確かに赤と黒がベースでドカッと「M:I-2」の文字が中心に来たポスター/パッケージのデザインなどはある意味カッコ良いし、小学生の僕はこれでめちゃくちゃ燃えた。これは今見ても普通にパッとしない次の3や、家族向け感や垢抜け感が全面に押し出された4、5よりも断然良い。しかしこれだけで果たして客は来るのだろうか?アメリカには暗い小学生しか住んでいないのだろうか?この映画はシリーズの他の作品に比べて、一体どこが秀でていたのだろうか。

そこを紐解く一つのキーワードとして、重要と思われるのがサウンドトラックである。本編のサントラは巨匠ハンス・ジマーが担当していて、この部分については可もなく不可もない、アクション映画っぽいサントラだな、以上のものではないのだが、この映画の冒頭、トム・クルーズがサングラスをこちらに投げるシーンから始まるOPで流れる主題歌「Take A Look Around」は、当時もっともアゲアゲだったバンドLimp Bizkitの楽曲で、こちらにはいささか着目に値する。当時アメリカの音楽シーンは彼らを代表する”ニュー・メタル”と呼ばれるジャンルが猛威を振るっていた。Limp Bizkitは、メタルのサウンドにラップボーカルを乗せたスタイルからラップメタルなどと揶揄されていたが、とにかく当時のアメリカの若者はメタルにも飽きていればロックにも飽きていた。そして当時最もフィーバーを巻き起こしていたのは白人ラッパーのエミネムで、白人ラッパーのエミネムがヒットしたことから、HIPHOPは急速に完全に全米のチャートに侵食を始めていた。メンバー全員が白人であるLimp Bizkitのラップ+ボーカルというスタイルは、そんな当時の音楽シーンにおいて、ラップの良いところと彼ら若者が普段聴いていたメタルやロックのエッセンスを融合させたまさに良いとこ取りの音楽で、そんなバンドの音楽が売れないはずがなく、そんなバンドが1回売れたら、雨後の筍のように同様のバンドが量産されるのも火を見るより明らかだった。Limp Bizkitはメッセージ性もシンプルだった。それまでチャートで頂点を極めていた、爆音に乗せて陰気な歌詞を歌うインダストリアル系のミュージシャンとLimp Bizkitは明らかに一線を画していて、ここにもHIPHOP的なオラオラ感の影響が見られた。Limp Bizkitの歌詞はメタルのオラオラ感と田舎のヤンキーのマッチョイズムを融合させたような、「俺たちの時代だぜ!!」「俺たちの邪魔するやつは消えろ!!」みたいな、団結感と「俺はカッコいい!!」を歌ったものがほとんどだった。芯が下品なだけに下ネタ使いも強烈で、2000年にリリースされたアルバム『Chocolate Starfish & The Hot Dog Flavored Water』のタイトルは”う◯このついたけつの穴”と”下痢便”の暗喩という惨状である。そんなLimp Bizkitはその後作曲担当の重要なメンバーが脱退したり、歌詞が頭悪すぎると言われすぎたせいか、突然中学生がいっぱい読書して取って付けたような怪文まみれの暗いアルバムを出したりして2001年以降急激に失速していくが、とにかくこの映画の出来た2000年は彼らの絶頂期であり、彼らの邪魔をするものはアメリカに誰もいなかった。なんせ、『ミッション・インポッシブル2』の主題歌を依頼されるくらいに有名だったのだ。そして彼らの作った「Take A Look Around」はそんな当時の彼らの勢いをそのまま象徴するような名曲となった。この曲は骨組みこそ、こういうポッと出の有名ロックバンドが無理やり映画の主題歌を頼まれた時にありがちな、映画のテーマ曲のメロディをそのまま使って作ってる系の、そのせいでサビあたりのメロディが怪しい感じになってしまうタイプの曲なのだが、そういうタイプの曲には珍しく、この曲はバンドのオリジナル曲として聴いても、映画の主題歌として聴いても、それぞれでカッコよさのある、見事としか言いようがない1曲となった。この曲はバンドにとっても代表曲の1つとなり、未だにライブのアンコールなどで演奏されている欠かせないレパートリーとなっている。この映画で曲が使われているニュー・メタルバンドは彼らだけではない。実はこの映画には本来のサウンドトラックの他に、『Mission: Impossible 2: Music from and Inspired by』という、「Take A Look Around」のようなこの映画に使われた曲から、タイトル通り、「この映画にインスパイアされた(何をインスパイアされるものがあるんだ?)」という触れ込みで、映画本編では一切流れない、でもこの映画で流れてそうなタイプの曲を集めた珍しいコンピレーション盤が発売されており(ジャケがサントラにめちゃくちゃ似てるので、サントラと思ってこっちを持ってる人も多そう)、そこにはLimp Bizkitを始め、フー・ファイターズやクリス・コーネル、バックチェリーといった、この2000年という時代に最も熱を帯びていた、ロックやニュー・メタル系のバンドの曲が多数収録されており、一種の時代の資料になっている。今でもブックオフの産業廃棄物のように山積みされた叩き売りのワゴンなどでこのアルバムを買うことができるが、ケースがバッキバキになって茶色く変色した、再生できるかも定かでないCDを勇気を出して再生してみると、そこにはまるでウッドストックの実況録音盤を聴いているような、濃厚な時代の空気感が圧縮されている。この映画はある意味、そういった音楽の”サントラ”としても観ることができるかもしれない。それだけ時代の流れに乗り切った映画でもあるのである。

そしてこの”ニュー・メタル”という切り口こそ、この『ミッション・インポッシブル2』という映画を理解する上で、最大の鍵になるのではないかと思われる。音楽ジャンルとしてのニュー・メタルは、当時、アメリカで90年代にそれまでのダサいメタルへの反発として生まれたグランジ(ググってください・・)が廃れ、「いや、メタルもカッコいいよ、でも、グランジもやっぱ捨てられないんだよな〜」みたいな、メタルを再評価しつつも、グランジを全否定できないノリから生まれた。グランジはどちらかというとストリート系で、若者の輪の中で生まれた音楽という面があったが、メタルは丸ごとひとつで完成されたカルチャーで、そこにはすでにファッションやアティチュードに厳密な規制のようなものが引かれていた。だからそういうものを拒んだメタル好きの若者は、必然ファッション的にもアティチュード的にも、メタルシーンから離れたところでメタルをやらなくてはならないという状況が生まれた。ニュー・メタルはそんなふうにして出現した。だから結果的には音楽が洗練されるに従って従来のメタルに近づき、最終的に両者には和解がもたらされ、ニュー・メタルはメタルから分離した何かになることはなかった。そのため、ブーム的にはいつの間にか始まって、いつの間にか終わったという印象が強いが(Raging Speedhornとか今何やってるんだろう・・)、このムーブメントは若者にもう一度メタルを流行らせるという重要な功績を残した。古臭く、長髪で黒い服を着た指ぬきグローブおじさんが、マイク片手にキャンキャン言ってる世界からメタルを進展させたのである。その”指ぬきグローブおじさん”こそ、この映画の監督、ジョン・ウーそのものである。ジョン・ウーをオールドスクールなメタラー、トム・クルーズを「メタルは好きだけど、メタルファッションは嫌いな若者」と仮定すれば、たちまちこの映画のニュー・メタル性があきらかになる。この映画のどこか映像が演技に追いついていない暴走感、トム・クルーズのアクションしきれてないけど普通にカッコいい感じ、見終わった後の謎の満足感などもこれで一気に説明がつく。おそらくこの映画が作られた当時、僕たち小学生はその後『ウインドトーカーズ』を観るまで気づかなかったが、ジョン・ウー監督の80年代的なアクション映画の「かっこいい」はすでに相当、時代遅れだったにちがいない。そしてジョン・ウー監督はそんな自分を修正できなかったし、今でも修正できてないし、そんな自分のアクション演出を人類史上最高だと信じていたし、今でもそう信じている。若きスター、トム・クルーズはプロデューサーとして、そんな映画監督のフィルターがかかった自分=イーサン・ハントこそ、今このアメリカで最もウケるアクション映画だと確信していたにちがいない。ラップとメタルの足し算のようなものだ。そう思ってみると、冒頭のフリークライミングのシーンも別の見方で見えてくる。あのシーンは一見、若きスパイ、イーサン・ハントが休暇を金のかかるスポーツに費やしているシーンに見えるが、実はあのシーンでジョン・ウー監督が意図していたのは、そんな”トム・クルーズを美しく撮る”ようなまっとうな映画人的感覚ではなくて、単に『コマンドー』のシュワちゃんの木こりシーンのような、主演俳優の強さと筋肉密度をアピールするための、”筋肉見せ”シーンだったのである。しかしそれをトム・クルーズが演じることにより、画面が若きイケメンスパイという説得力で満ち、サングラス投げもクールに決まる。一連の流れをすべてシルベスター・スタローンに置き換えてもらいたい。完全にシーンに違和感はないが(スタローンが素手で岩山を登る映像に違和感を抱く人間がこの世にいるだろうか?)、『ランボー3』や『ジュニア』よりもいけないものを見せられた気持ちになることは間違い無しだ。そんなジョン・ウー監督の演出の”ズレ”は、ラブシーンや、トム・クルーズを普通のイケメンに撮らなければならないシーンでは頻出し、どうして自分がこんな映画を撮っているかわからないといった集中力のなさを露呈しているが、しかしそういう微妙な演出によって、トム・クルーズはジョン・ウー監督のキャラクターというよりは、”イーサン・ハントを演じるトム・クルーズ”という、舞台俳優的な主役感を維持している。音楽的にはダメだが、組み合わせ的な面白さは輝き続けている。そしてアクションシーンになった途端、トム・クルーズはイーサン・ハントを演じることをやめ、「ジョン・ウー監督の映画に主演しているトム・クルーズ」となり、自身のアクション俳優としての魅力を、演出によって作り出してもらうことに成功している。トム・クルーズは普段のトム・クルーズでいながら、ジョン・ウー監督のジョン・ウーらしさに全力でノることによって、シュワちゃんやバンダムのように無駄な筋肉を作ることなく、「アクション・スター」になることに成功したのである。トム・クルーズがアクション映画に新しい命を吹き込んだというと言い過ぎだし、この時期公開されていた他のアクション映画を忘れすぎだと思うが、それでもこの映画は、演出だけでアクションを見せるという意味で、この後この方向性をさらに進化させたアメコミヒーロー系映画のきっかけにもなったのではないかと思う。うまくアクションできないときはスローモーションに頼れば良いのだ。今2017年にジョン・ウー監督の映画を見る必要性はほぼないと思われるが、もしこの映画を未見で、レンタル店で『ウインドトーカーズ』と『レッドクリフ』で迷ったときは、両方ゴミ箱に捨てて、この映画を借りてみて欲しい。

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