沈黙シリーズ、というかセガールについて


セガール映画と言ったところで一体今何人の人が彼の出演作を追いかけていることだろう。もちろんTSUTAYAやGEOに行けば新着コーナーに彼の作品は並んでいるし、AmazonプライムやHuluといった動画配信サイトを見ても彼の出演作というのはいたるところに転がっている。しかし木曜洋画劇場が終わり、テレビの地上派で彼の作品が放映される機会が減った今、今後僕のような90年代育ちの人間が小学生時代に楽しんでいたように、夕刊のテレビ欄の下の広告スペースに『グリマーマン』や『イントゥ・ザ・サン』の劇場公開の広告が載っているのを見てワクワクするようなことが今の小中学生の間にあるとは思えない。もちろんその頃からアーノルド・シュワルツェネッガーの作品やシルベスター・スタローンの作品を追いかけるという人も中にはいるだろうし、動画配信サイトやユーチューブで映画の一部がいくらでも観れるようになった今、そういった一人のアクションスターの出演作を全部追いかけるにはおそらく近所のGEOしか映像作品と触れ合う機会がなかった小学生時代の僕よりもずっと環境には恵まれていると言える。しかしわざわざシルベスター・スタローンやブルース・ウィリスを好きになる必要がないし、ハリウッドのアクション超大作の基本トレンドがアメコミのヒーローものかスターウォーズのパクリみたいなSFアクション一色になっている今、どこにもかつての筋肉スター映画の入り込む余地はなく、年齢的にもそういったスター達が続々とアクションが出来なくなっていき、かといってそれ以外の魅せ方で活躍するチャンスもないから次々とスクリーンの中心から姿を消している状況の中で、以前のようにライトな映画好きの子供がそういった映画に触れ合う機会は激減しているのではないかと思う。

いや、もう2017年の現状的にはだいたい壊滅していると言った方が良いのかもしれない。アーノルド・シュワルツェネッガーもターミネーターの最新作に顔を出した以外は今ではほとんど俳優というより元政治家のテレビスターという立ち位置に行ってしまっているし、最近ではドナルド・トランプが司会をしていた番組の後釜に座っているらしい。スタローンも2014年までは『エクスペンダブルズ』シリーズや自身のはじめたシリーズ、『ランボー』と『ロッキー』にそれぞれ素晴らしい有終の美を飾るという立派な仕事をして元気な(ギリギリ)姿を見せていたが、最近ではまた方向性を見失ってしまったのか、それとも完全にやることをやり遂げたのか、映画出演からは距離を置いている。ブルース・ウィリスはアメコミ原作の『RED』シリーズでは往年の張りを見せてくれたものの、基本的に90年代頃から何の進歩もない同じような演技の連続で、この人が一番出演作品ごとの差違を捉えにくい。ニコラス・ケイジは2009年のドイツの名匠ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品『バッド・ルーテナント』ではこれまでの自身のダメ人間役を総括したような素晴らしい演技を見せてくれたが、あとはずっとあの顔で焦ってるような低予算の映画に出続けているだけで、ざっと見渡して今現役で一線で活動を続けている90年代のアクションスターというのはほとんどいないのではないか、というのが現状だと思う。もちろん新世代のアクションスターというべきジェイソン・ステイサムや、『96時間』シリーズで突然海面に浮上したようなリーアム・ニーソンは、それぞれがそれぞれなりに独自の”アクション映画のいい感じ”を体現してくれていてとてもいいのだが、単純に、昔のスターが全員ゆるやかに坂を転がり落ちていっている感じが寂しい、という個人的な感傷を拭うことができない。おそらくこのままいくと、というかすでに今の小学校1年くらいの男の子にとっては初めて見るアクション映画は絶対リュック・ベッソン監督じゃないし、レニー・ハーリン監督の名前を今後どのくらいの人数が新しく覚えるのだろうと思うと絶望感で胸がいっぱいになってくる。僕の中学の時ですらトレンドはすでに『スパイダーマン』や『ハリーポッター』シリーズに移行していた。今後どれくらい90年代風味のアクション映画のファンが増えるかと思うと、供給以前に需要の段階で意識の変化が起きてしまっていると思わざるをえない。このまま行くと日本の伝統産業ではないが(後継者一人系)、このハリウッドが80年代から90年代にかけて完成させたアクション映画というジャンルも、かつての西部劇のように消滅していく一方なのではないかと思われる。しかしこうしてアクションスターがアクション映画という文化ごと坂を転がり落ち、そのままトップスピードで柵をブチ抜け、海に向かって綺麗な放物線を描いて消えていっている中で、坂の途中でスピードを落とすことに成功し、あとはずっと薄暗い路地裏で活動を続けている、そんなアクション俳優はどこかにいないのだろうか?そう考えた時にスティーブン・セガールが浮上する。

おそらくスティーブン・セガールが落ち目と聞いて、ピンとこない映画ファンの方もいるだろう。というのはスティーブン・セガールは落ち目とか落ち目じゃないというより、ずっと同じようなことをしている印象(落ち目とかいう以前の問題)しかないからで、確かに全国の劇場で映画が公開される機会は減ったが、単館で上映される映画作品、つまり毎年制作される主演映画の本数はヴァンダムやドルフ・ラングレンに比べて多いし、シュワルツェネッガーやスタローンに比べるとものすごい勢いで作品が作られ続けている。また、他の落ち目なアクションスターと違い、近年の「落ち目になってからの作品」ともいうべきやや低予算のヨーロッパロケのアクション映画のようなものでも午後のロードショーなど地上波で放映される頻度が高い。だからユーチューブを調べればいくらでも主演作品の劇場予告編を見つけることができるし、出演作のアクの濃さから来るネタ濃度から、ネットでの知名度も高い。だからここ日本ではセガールは落ち目ですらない、そもそも最初から一定のファン相手にしか商売をしていないような、不思議な定着感、ファン層があるような気がする。

しかし実はこんなに安定した人気があるのは日本だけで、本国アメリカでは1998年の『沈黙の陰謀』以来、セガールの出演作品はほぼ90%以上がビデオスルー扱いとなっている。つまりもう20年以上、アメリカ本国では一部の例外を除き、セガールの主演作品は劇場公開すらされていない。日本では出演作品ほとんどになぜか「沈黙の◯◯」という邦題がつき、それが勝手に沈黙シリーズと呼ばれることで、セガールブランドともいうべき安定感を築き上げることに成功しているが、おそらくアメリカではセガールは「同じような映画に延々出続けているB級アクション俳優」でしかないのだろう。セガールが十三に住んでいたことなど大部分のアメリカ人にとってどうでもいいことだし、セガールの娘と息子が日本でタレント活動をしていたことなどさらにどうでもいいことだろうし、セガールが時々話す奇妙な日本語にキュンとくるようなアメリカ人はおそらく0に等しいのではないか。そう考えるとセガールの人気というのは、ここ日本で作られたもの、ここ日本だけで通用するブランド、という気もしてくる。『マチェーテ』(2010年)のような作品に取り上げられるほどそのキャラクター性だけは海外でも浸透しているようだが、そもそもアメリカにはチャック・ノリスというセガールを優にしのぐmemeマスターがいるし、セガールの主演映画を沈黙シリーズという勝手に作った言葉でブランド化し、堂々とシリーズ物のふりをして配給し続けているような国が、ここ日本以外にあるとは思えない。事実近年のセガール映画の中には本国でビデオが発売されるよりも前に映画が日本で公開されるという謎な逆転現象まで起きており、セガール映画にとって日本という存在がますます重要度を増していることを感じさせる。

こうした本国では90年代末に坂の下まで転がり落ち、以降20年に渡ってビデオスルー俳優であり続けるセガールが、ここ日本でだけ長きにわたる支持と人気を得られてきた理由は一体どこにあるのだろうか?それはやはり、「沈黙シリーズ」というネーミングにあるような気がする。「座頭市」や「寅さん」もそうだが、長く続いているシリーズというのはそれだけで観る者に一定の安心感を与えさせる。それは『スピーシーズ2』や『プレデター2』のような、3が作られてないけど大丈夫?みたいな不安を感じさせない。『ターミネーター』もシリーズごとにタイトルが違えば誰も全てみようとは思わなかっただろう。同じ設定で違うロボットのデザインでいくらでもあのような話を作ることはできると思うが、それをあえてアーノルド・シュワルツェネッガーという俳優とあのデザインを使い続けてやることによって、多少彼の老化でアクションが地味なことになっても、2017年の今見てあのデザインのロボがさらに別のロボを動かして攻撃をしかけてきたりする意味がわからない、というかなしい気持ちに包まれても、ターミネーターだから、という理由でとりあえず劇場に足を運ぶ人から利益を得ることができる。『スターウォーズ』のローグワンも、なぜ作られたのかきっと永遠にわからない『インデペンデンス・デイ2』も大方この安心感にすべてを投げている。沈黙シリーズもそうである。なぜセガール以外の映画スターが坂の下を転がり落ち、セガールだけが途中で止まれたかというと、沈黙シリーズという日本で勝手に作られたブランドが、その安心感で観客を掴み続けたからである。ヴァンダムも実は非常にコンスタンスに映画を作り続けていて、『キックボクサー』のリブートや、『ユニバーサル・ソルジャー』の続編を何本も作っている。しかしそれがセガールほどの安定感を持って受け入れられないのは、やはりその1本1本が「有名映画の低予算の続編」にしか見られず、そんな映画に出続けているヴァン・ダムが落ち目な映画俳優にしか見られないからで、その段階を90年代の全盛期、『沈黙の要塞』から『沈黙の断崖』に至るあたりですでに通過したセガールにとっては、その後の作品はいくら低予算になりアクションがしょぼくなっても、「セガールの映画だから」「沈黙シリーズだから」という不滅の安心感によってすんなり受け入れられるものになっている。沈黙シリーズはそもそも(最初に何本かハリウッド超大作級の作品が作られはしたが)、セガールが落ち目になった瞬間、シリーズとして成立したと言っても良い。これがもし、出演作品すべてに『沈黙の戦艦』以前の作品のように1本ずつ味気ないカタカナに直しただけのような邦題がつけられていたとしたら、セガールが今のような安定感を持って受け入れられていたことは決してなかっただろう。それだけシリーズ、という概念には安定感と安心感があるのである。

そして内容もシリーズという概念に安定感と安心感を与える。セガールの沈黙シリーズにおいて、実は正式な続編は1作目の『沈黙の戦艦』と、『暴走特急』という沈黙シリーズの名前がついていない別作品だけである。これ以外に「沈黙」と名につく作品が27作品(TVシリーズの各話についたサブタイトルも含めると40作品)作られているが、どれも設定が違い、正式な続編ではない。というよりそもそも、セガールの出演作品に沈黙の名前をつける、という謎ノルマを配給会社が持っているだけで、続編だと宣伝されたことはおそらくないと思われる。この出演作品に「沈黙」をつけるかつけないかはおそらく無作為で、特に法則などはないと思われるが、2001年にジョエル・シルバープロデュースで公開された映画『DENGEKI 電撃』以降はしばらく『雷神 Raijin』『一撃 ICHIGEKI』『弾突 DANTOTSU』などの2字熟語+ローマ字読みのパターンの邦題がつけられていたこともあった。これは『DENGEKI 電撃』のセガールのキャラ作りがそれまで定番だった髷を切り、さらにちょっと痩せてスリムな体型になる、というキャラクターチェンジ要素が多く含まれていたために、配給会社がさすがに沈黙シリーズではまずいと判断したのだと思われる。同様の判断があったと思わせる事例は他にもあって、『イントゥ・ザ・サン』(2005年)は日本を舞台にしたキル・ビル的雰囲気のあるアクション映画ということもあってか、セガール映画にはかなり珍しく原題のカタカナ読みがそのまま邦題となっている。また、『沈黙の戦艦』以前の作品は全て原題→カタカナのようなシンプルな邦題が多い。しかし内容的にこれらの「沈黙シリーズ」「2字熟語+ローマ字読み」「原題→カタカナ」の作品に大きな違いがあるわけではなく、基本的にセガール映画のプロットは1作目の『刑事ニコ/法の死角』から一切変更はない。刑事ニコが88年の作品だから、実に30年近くセガールはそのプロットだけで疾走しているということになる。

おそらくネットを少し調べてもらえばセガール映画のマンネリ感、一辺倒感についてネタ的に解説にした楽しい記事はいくらでも見つかると思うので、ここではその概略だけを書いておくと、まず大抵の場合、セガールは元特殊部隊の隊員で、その立場を隠して生活している。最近ではのっけから特殊部隊の隊長をしている現役バリバリの兵士、という役も少なくないが、コンセプト的にはだいたい『コマンドー』のシュワルツェネッガーと同じであり、そんなセガールが何かしらの事件(テロか殺人)に巻き込まれることでストーリーは始まる。あとは敵を壊滅させてハッピーエンドというくだりも『コマンドー』と同じなのだが、その壊滅させるくだりに他のアクション映画にはない特徴があって、とにかくセガールは傷つかないし、敵をベルトコンベア作業のように一方通行的に壊滅していくのである。その一方通行感と圧倒的な強さがセガール映画の魅力であり、どんな映画でも見ていくうちに敵がセガールに何発ダメージを入れられたか?が鑑賞のポイントになってくる。驚くべきはこの圧倒的な強さというコンセプトが1作目の『刑事ニコ』から片時もブレていないことで、『沈黙の戦艦』をはじめとする沈黙シリーズでも一切ここだけにはブレがない。時々顔から鼻血を出したり、肩を撃たれたりしてしまうこともあるが、演技ができないのか、基本的にダメージが通ったという描写は皆無である。そしてそのアクションシーン中に見られるセガールの動きもかなり独創的で、一般にセガール拳と呼ばれる、彼が7段を持っている合気道の動きでは絶対ないということしかわからない謎の中国風拳法や、銃を必ず片手で斜め水平にして持つという奇妙なグリップの握り方など、挙げ出せば枚挙にいとまがない。そしてそういう共通点がどの映画でも必ず見られるために、セガール映画はたとえ一編一編が本来別々の作品であったとしても、沈黙シリーズという言葉によって一種のパラレルワールド的世界観の拡がりとして観ていくことができるのである。一編一編のセガール映画を別の時間軸、世界線だとした場合、30本近い沈黙シリーズとそこに登場するセガールがまた違う一本の別の作品として見えてくることがある。言ってしまえばセガール映画とは制作された本数に分割された約”2時間×制作された本数”時間ある一本の大長編映画ともとれる。だから細切れにされたほかの落ち目なアクションスターの作品と違い、沈黙シリーズはまだ、それが作られ続ける限り見終わった人間が一人もいない作品なのである。だからセガールファンという固有のファンが根強く作品を支持しているのだし、単館であれ日本で劇場公開され続ける。きっとそれは究極スティーブン・セガールという俳優の魅力ですらなく、むしろ宇宙世紀のガンダムを全部見るまではガンダムを見た気になれないような、ワンピースを87巻から読み始められないような、そういう何か作品と向き合った時に受け手側に生じる不思議な感覚のおかげなのだと思う。それが”沈黙シリーズ”という言葉に集約されている。そして『大菩薩峠』や『グイン・サーガ』と違って、セガールが映画に出れなくなった瞬間、最後の主演作品が即完結作品となる。決して未完に終わることはないが、出る限りは未完であり続ける、そしてその実態は続きものでもなんでもないバラバラの作品の集合体、監督も全員違うし、何より続き物である要素を担っているのは日本の配給会社の企画部だけ。こんな不思議なシリーズものを僕はほかに知らない。何か特定のものに番号をつけ整頓することで、それが1つの巨大な塊に見える。そこにあるのはただ、最初は「次のも沈黙の◯◯でいっか。」的な流れ作業だったのかもしれない(戦艦→要塞だから絶対そう)。でもそういうふとしたひらめきが、1人の映画俳優を長年活躍させたりする。そんな行き当たりばったりな、適当に組んだジェンガのような魅力が沈黙シリーズには溢れている。

文章 PRINTPUB02会員NO.00002:NR 青のりしめじ http://aonorishimeji.com
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