印刷の完成


印刷の完成する地点は、それを捉える人々の目によって様々に変化します。商品の一部としての印刷、印刷そのものがアイテムだったりする場合、デザイナーだったらデータを納品した時かもしれないし、印刷側なら刷り上がりを納品した時かも、商人なら売れた瞬間かもしれない、はたまた、小説家なら書店に並んだ時とも言えるかもしれません。人を取り除き、印刷という現象だけで答えた時、印刷機が稼働し、紙にインクや加工を与えた時、と答える人もいるでしょう。もしかしたら、時間が経って古びたものに、その価値を見出したり、保存や残す、という意味での完成を唱う人もいるかもしれません。このようにザラっと書いただけでも、非常に多くの完成が印刷には存在している事が分かります。しかもこれは一部であると考えられますし、同時にそれくらい印刷というものが、たくさんの様々な人々に意識され、利用されている事の証なのでしょう。だからこそ、印刷のこれからの発展の為に、一定の完成の指標が必要だと感じます。このように、たくさんの完成の意味を持つ技術は、技術としての発展が多種多様になる傾向にあると思うのですが、本来の西洋が齎す印刷としての文脈とは少し離れた特異な状況であるような気もするのです。またはそれが日本独特の在り方だと言ってしまえばその通りですし、技術がたくさんあれば、選択肢も増え自由な完成をとても謳歌出来る事でしょう。ただし、それが本当に印刷なのでしょうか。印刷をもっと印刷として成立させ完成に近づけた時にこそ、それが印刷であると言えるのではないでしょうか。この文脈としての印刷を意識し定義する事で、技術の意味や存在意義みたいなものが、ある程度一定の方向に進む事になるし、そうする事で、その廻りに存在する概念も1つ1つのピースとして互いに関連を持ち合い、かつてない成立を生むのではないでしょうか。今のように自由すぎる主観が生み出す印刷は、本当に印刷と胸を張って言えるのでしょうか。しかし、残念な事に「正す」や「変える」事は印刷の衰退傾向にある今の現状では当然、無理な事は100も承知です。たしか、2000年代初頭に本気で、印刷が無くなってしまうかもしれないと感じた人々がなんとか努力して作り上げたのが今の印刷の状況である事は間違いはなさそうです。例えば、日本においての印刷の発展期に、この事が真剣に議論されていたのであれば、とても効果があったと思いますが、今となってしまっては、それは不可能に近く、今、議論したとしても、なんら意味が無く、その発展期に構築された、なんとも言えない印刷とは程遠い「策定」のまま、それだけが変わらず在り続けているのはとても胸が痛みます。そして、それが最高にとてもつまらない状況作り出している。凄く泣ける、やばい。もし救いがあるとすれば、技術だけは印刷として成立している中で、新たに個人で発注が出来るようになった今があるからこそ、その人たちが真剣に向きあい「策定」する事で、もしかしたら、という希望があります。もしかしたら日本人もカッコイイ印刷が出来るかもしれない!本当の印刷の完成が出来るかもしれない!それくらい、この印刷の完成について考える事は、とても重要で大切な事なのです。印刷は西洋から齎された文化です。もっと言えば、技術はドイツですが、文脈としてはフランスにした方がいいかもしれません。日本には版画というものがあり、その文脈での書体も存在していますが、それは少し除外した方がいいかもしれません。印刷を捉える時、技術とは何か、文化とは何か、そういうものが一定の水準で理解され、達成された時、本来あるべく完成に近づくのだという意識を持つと、技術としての印刷がより発展し価値が高まります。ただし、これは今ある自由に遊べる状況を剥奪し否定するものではありません。むしろ、今ある印刷の状況を謳歌する為の提案です。日本人向けにもっと書けば、今、あなたが関心を持ち向かい合っている状況や作っているものがダメ、という話ではありません。各々が立ち向かう、同人なら同人(コミケ的な、個人商店なら商店(匣の匣さん的な、アナログゲームの場合もあると思います。そういったものを否定する発言ではありません。むしろそういった状況の中で、より印刷が発展する為にどうすればいいか、という提案でもあります。つまり、そうする事で、様々なシーンで印刷を使用する際に、より価値の高い、より結びつきの強い、より芯のある印刷が「完成」に至るのです。それがここで意味する「一定の完成の指標」であり、それは、印刷の捉え方、意識のしかた、をとても変えるものだと思います。

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